教室レポート(82) 2011
2週間前に韓国の伽倻山に行ってきたので、その報告をさせて頂いた。物語16巻に「神素盞鳴の大神
の隠れ場所なる慶尚道の壇山」とあるが、この場所と推定されるところで、他の場所とは明らかに空気が
違う良い所でありました。来年は霊界物語勉強会を中心とした韓国旅行を計画中とのことで、乞うご期待。
冒頭に6月11日の元伊勢お水の御用110年記念の元伊勢参拝及び比沼麻奈為神社参拝の模様を聞く。
また7月12日には出雲火の御用110年記念の出雲大社参拝があるとのことだ。
第20巻 第七章 再生の歓 第八章 心の鬼 第九章 童子教
宇都山郷の松鷹彦は武志の宮の社務所に居を転じ、宗彦、お勝の両人と共に朝夕神に仕えていた。松鷹
彦はかつて男二人、女一人の子供を何者にか攫われていたのであるが、宗彦・お勝さらには真浦が松鷹彦
の子供であったことが明らかになる。宗彦とお勝は実は兄弟であったのであるが、それを知らずに夫婦と
なっていたのだ。
その後宗彦は聖地に参いのぼり言依別命より宣伝使に任じられ三国ヶ岳に向けて宣伝の初旅に就く。
その途中、一三年前に田吾作の玉を強奪しようとして田吾作を殺してしまったと思い込み、罪の意識に重
病に陥っていた原彦を救う。ここで人の罪についての問答が展開されているが、面白いところだ。
宗彦、留公、田吾作、原彦の4人が谷川に沿って進んで行き、熊の皮を失敬してしまうのであるが、笑
童子、泣童子、怒童子が現れて油をしぼられるのであった。
桜井道彦記
金沢、富山共通
第三一巻第一章「主一無敵」と第二〇章「脱皮婆」抜粋を拝読。
本文「主一無敵」は信仰のあり方をお示しになっています。
ウラル教の信者エレナが母の病気平癒と父が救われることを国依別の宣伝使に依頼しますが、エレナの
心の中にこれまで信じてきたウラル教の大自在天を信ずべきか三五教の国常立命を信ずべきかと迷いが生
じます。神と人の関係は霊と霊の関係であり、少しでも迷いがあれば神とのつながりが中途半端になり神
からの十分な助けが受けられません。国依別はどちらか、信ずる方にのみ祈るよう「主一無敵」の信仰に
徹するよう諭し別れます。
こうした切羽詰まった状況でなくとも、我々が信仰する上で自分の信ずる教えが本当に正しいのだろう
か、また、別の教えから移ってきた時、前の宗教と比較して今の教えが正しいのか、一時的に迷う時期が
あります。迷った時はどちらか一方を欺されていても良しとして信ずるしかないのではないでしょうか。
金沢教室 午後1時30分
第12巻第29~30章を拝読
28章「三貴紳」から続いての古事記略解です。須佐之男命がお父さんの伊邪那岐命の許しを得て、母の
国へ行くに先立ち、姉大神の天照大御神にお会いになるため高天原へ登ります。多くの家来を引き連れて
いったので、姉大神は自分の国を取りに来たのだと誤解しますが、誓約(うけひ)によって須佐之男命の
心の綺麗なことが証明されます。ここで天照大御神からは五男神が須佐之男命には三女神がお生まれにな
ったとあります。しかし、天照大御神にしろ須佐之男命にしろここでお生まれになったお子様はすでに存
在しています。須佐之男命の三女神は、秋月姫、深雪姫、橘姫であり第三編天岩戸開(三)では五男神と
の絡みが書かれています。すべてが天の岩戸開きの御神業への布石ではないでしょうか。
次回13巻
富山教室 午後7時より
第14巻第8章を拝読
第一章で出てきた三途の川の脱衣婆が再度出てきます。
そして、『此処へ来るのは、娑婆(しゃば)の罪を亡ぼした奴の来る所だ。貴様は罪悪の借金を沢山積ん
で居るから、モツトモツト苦しい目をしてから出て来るのだ。罪悪の借金を娑婆へ残して、コンナ処へ逃
げて来るとは、余り狡(ずる)いぢやないか、薄志弱行にも程があるワ、この三途の川はドンナ所だと思
つて居るか、貴様の身魂を洗濯する所かい、天で言へば天の安河も同様な処ぢやぞ』とあります。
三途の川は「身魂を洗濯する所かい」と疑問を投げかけ、決してそうでは無く、また「天の安の河原《非
常に清浄なところ(12巻29章)》」とあり、また、第31巻の「脱皮婆」でも「そこ(三途の川)を通る奴
は罪の軽い連中だ」とあります。娑婆で罪を償ってきた者が三途の川を渡ることができるので、比較的罪
が軽いか天国に行けるような身魂と思われます。
私は死後、大方の人が三途の川を渡ると思っていたので、この章と第31巻の「脱皮婆」とを合わせて考
えると必ずしもそうでは無く、罪が重ければ、三途の川を渡らず焼野ヶ原の脱皮婆に会って焦熱地獄へ行
くようです。
『現界の事は直に幽界に写るのだ、一遍死んだ位ぢや死太(しぶと)い身魂が、仲々改心いたさぬから
今一遍出直し、それでも改心せずば三遍四遍と何遍でも焼き滅すのだ。貴様は娑婆で20世紀頃に始まつ
た三五教の教を聞いているだらう、改心をいたさねば何遍でも、身魂を焼いて遣(や)るぞよと云うこと
があるだろう、今の娑婆の奴は一度死んだら、二度は死なないと、多寡をくくって居やがるが、一度あっ
た事は、二度も三度もあるものだぞ、何遍でも死なねばならないぞ』と罪を犯せば、何度でも焦熱地獄と
娑婆の往復をして、罪亡ぼしのため修行のやり直しをさせられるようです。
阿良田記
次回
7月19日(火) 金沢教室 午後1時より 第13巻
富山教室 午後7時より 第14巻
8月3日(水) 金沢教室 午後1時より 第13巻
富山教室 午後7時より 第14巻
午後7時~於青梅市民会館。
6月は、15巻、第5章五天狗、6章北山川、7章釣瓶攻、8章ウラナイ教、9章薯蕷汁まで拝読。
5章では、エデン河(ユーフラテス川)で遭難した5人(勝彦、国彦、安彦、田加彦、百舌彦)が妙音菩
薩に救われる様子が描かれます。幽界ではその5人が脱衣婆に、宣伝使たる貫目がゼロだと空中に飛ばさ
れる様子は示唆に富んでいます。霊主体従を自認しながら、実は体主霊従表現者で有ったなんて事は、吾
々自身の内面を表すとも思われます。9章まで一貫して5人がわれよしの体現者とすると、ウラナイ教の
登場などと共に、初期の大本教団の内情すら思わされます。私事では有りますが、第三次事件が起きた当
初、最初に此の巻を勉強させられました。その時のメモを見ると①、薯蕷汁は飲み込み易い(教義は丸呑
み・灰が混じるのは異説)②、艮の金神だけを信じるのはウラナイ教。③、欠け茶碗は宣伝使達の品位、
品格を表現する。④、信者が耳目を奪われた姿は初期の大本教団で有ると共に、三次事件発生当時の大本
教団でも有る。等々今も残っていますが現在の感覚と余り変化は有りません。しかし吾々は改革派で有っ
てウラナイ教では無いと思っていましたが、果たしてそうで有ったか?私自身耳目を奪われた部分が有っ
た様にも思います。改革すべきは己の心で有った様にも思います。あれから30年再び、三度15巻を読
まされています。物語は拝読する度に新しい発見が有ります。それが間違った方向に行かない様に自戒し
ながら歩を進めたく思っています。
三輪 光佳
次回7月25日。8月29日
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