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教室レポート(75)        2010




金沢教室 11月16日(火)  


金沢、富山共通のお話

11月7日に大本神諭第1巻が新たに出版されました。今年から再来年にかけての大本開教120年に向けて

第5巻までが出されます。過去にも何度か出されましたが、今回は大本神諭を始めて編年体で編集し総て

が出版されます。

 筆先は無学文盲であった開祖出口なおに艮の金神が神懸って書かれた(自動書記)ものであり半紙に平

仮名だけで書かれています。書かれたものは総てが艮の金神の筆先ではなく、他の神のものもあったので、

その中から出口聖師が取捨選択し漢字まじり文に整えて発表されたのが大本神諭です。

 大本には経緯2系統の教えがあり、筆先は経(たて)の教えで、艮の金神国常立命が開祖に神懸って書

かれたもので明治25年から大正7年までの27年間に渡って書かれました。この世は我(われ)よしで、強い

もの勝ちの悪魔ばかりの世であるとし、この世の立替え立直しを叫ばれ、人々に改心を求められました。

 神諭は大正6年に初めて機関誌「神霊界」に発表されました。その後、現在であればTVやインターネット

であるが、当時としては画期的な手法である新聞や雑誌を使った文書宣伝の形を取り、神諭の預言警告と

断定的な文章は当時の世相と合致し、また聖師の論理的文章と相まって多くの知識人が大本に入信しました。


第12巻 第17章から20章までを勉強。

第17章の宣伝歌に

    ・・・・・   畏き神のみ教えを  四方に伝ふる神司  小さき事に囚はれず  

虚空の外に身を置きて  神代幽世現世の  奇しき有様明らめて  世人を救ふ皇神の

太き柱となれよかし。

以上のお歌は教えを伝える宣伝使へのメッセージであるが、小さいことに捕らわれず、虚空の外に身を置

きてとある。虚空とはイメージしにくいが何もない空間でありまた、総ての空間でもある。宇宙の外に身

を置くことにもなる。

宇宙の外に身を置けるのは神であるからこの世の元を創った神でなければ出来ないことであり、その神の

心(教え)になって、宇宙の総ての事象についての、霊妙な様を明らかにし、世人を救う神の手足となり

なさい。そのためには小さいことに捕らわれるなとお示しになっています。

 20章では、物語の中にはこの20章のように一見無駄にページが進んで行くように思われるところが

ありますが、それは全く意味がないことではなく、神様の教えが尊いと分かっても直ぐには改心ができる

人とそうでない人が居て、しかもその改心した人が、素直にそのまま行くかと言えばそうではなく、行き

つ戻りつ、こけつまろびつしながら近づいて行くところがある。それも、牛、鹿等のように個性に応じて

よっさもっさしている。そこにリアリティがあり、改心が一朝一夕には行かぬ人の弱さが表れているよう

だ。また、そこに成長の過程が見える。

さまざまな説がありますが、国常立命がご苦労の末土から蒸しわかしたと示されています。したがて人は

人として作られ猿から進化したものではありません。


富山教室 11月16日(火)  

                                

今年の夏は暑かったので松茸の菌がよく繁殖し丹波の松茸も豊作とのこと。とは言え庶民の口にはなかな

か縁遠いようです。


第13巻 17章から19章までを勉強。17章の余白歌についてお話がありました。

  人生の本義を知らぬ今の世は  なやみの雲の晴るるひまなし

とあります。現代人は多くの悩みを持っていますが、自分たちがこの世に生きている本当の意味を知らぬ

から悩みから解放されないのである。別のお歌に

  人生の真目的は地の上に 無窮の天国建つるにありけり

と明確に表現されています。無窮(むきゅう)は無限と言うことであり、形あるものはいずれ朽ちて行く

のでこの永遠の天国とは形ある天国ではない。聖師は人の魂は永遠に生き通しであるとお示しになっての

で、人の心の中にたてられた天国こそが無窮の天国であります。人の魂が永遠の平和と、栄えを得ること

であります。信一先生がよく言われた、人には天職と生業があり、こうした尊い使命が天職であり、日常

の生活を維持していく職業が生業である。日常の生業の上に立って、天より与えられた天職を心の内に築

いて行くことが大切なのです。

19章では

これまでに様々な幻覚を見せつけられ、自信を失っているところへ美人が現れ『腹の岩窟に、沢山の曲津

を棲息させて、足許の掃除もせずに、おほけなくも、醜の岩窟の悪魔退治とお出掛なさつた、心根がいじ

らしう御座ンす。』と諭されます。

霊縛に掛けられ身動きできない状態になり『斯う五里霧中に彷徨つては仕方がない。頭からカブリなと呑

みなと、勝手にせい。俺の身体は全部貴様に任した、エー棄鉢だツ』と、ある意味命を捨てるまでの覚悟

で神に身をまかせた時、一切の執着から解放され、臍下丹田に岩戸が開けます。そして今までのように驕

った気持もなく、話す言葉さえも丁寧になります。三人の宣伝使はそれぞれの魂にあった身魂相応の試し

にあわされ改心します。

等のお話がありました。

  以上阿良田記

 

次回  12月21日(火) 金沢教室 午後1時より12巻

              富山教室 午後7時より13巻


八重洲教室 11月27日(土)  


 第18巻は弥仙山が舞台となる為、冒頭に弥仙山の説明をして頂いた。

 明治34年に開祖は聖師と火水の戦いを行い、7日間弥仙山に籠った。

聖師の絵には猫が描かれているが、丹波は養蚕が盛んな所で蚕の天敵のネズミの為に猫を飼っている家が

多かったそうだ。

                       

 第十八巻  序  総説  

     第一章 春野の旅  第二章 厳の花  第三章 神命  第四章 四尾山  第五章 赤鳥居

 英子姫は素盞鳴尊の神勅により弥仙山に登山し、一つの経綸を行う。悦子姫一行は追って弥仙山に向かっ

て行き、豊彦の家を訪れる。豊彦とお玉が白髪異様の老人が娘のお玉に五つの玉を胸の辺りに押し込んだ夢

を見てから腹が膨れ、十八ヵ月になっていた。悦子姫は、厳の御霊の大神が生まれると言い、出産を手伝い

生まれた子に玉照姫と名付ける。その後悦子姫一行は弥仙山に登山し、悦子姫は山頂で重大なる神勅を受け

急いで下山して行く。

 悦子姫は世継王山の麓にささやかなる家を作り国治立命と豊国姫命の二神を鎮祭する。そこに紫姫一行が

訪れ、悦子姫は音彦と神素盞鳴大神の隠れ給う近江の竹生島へ向い、紫姫は三人の男を伴い西北指して進み

行く。紫姫一行は黒姫の差図で捕えられたお節を救い出し、青彦改め若彦は恋女房と対面する。

                        

                                          桜井道彦記


青梅教室 11月29日(月)  


                                        於青梅市民会館


今月より14巻に入る。冒頭今月発売の大本神諭の宣伝をして、一軒に一冊を目標に購入を依頼。

14巻は13巻の最終からの続きで、弥次彦与太彦の修行の物語。序歌、総論歌、第1章三途川、第2章銅木像、

までを拝読。序歌では主神始め清く正しい神々の守り給う霊界物語によって
御魂を磨けと説かれている。

総論歌は14巻全体の予告歌では有るが、物語がミロクの神のご守護を頂き編ま
れたと記されている。

第1章、三途川、第2章銅木像、はウラル教の追手から逃れる為に小鹿山から川に飛び込み気絶した、音彦

弥次、与太3人の幽界修行のお話。弥次喜多道中記よりも面白い話しが、三途川の脱衣婆と弥次与太両人と

展開される。2人が小竹の家の柴屋の2階で土瓶の中に小便を垂れ、握り飯に鼻汁が混じっていると文句を

言った事が、幽界で攻撃されている。人の見ていない時には何でもする横着者を戒めているが、現代人の

信者
宣伝使も表面は立派だが中身は同じだとも警告している。諧謔の中から真理を悟れと言う物語の真髄

が籠め
られる。しかしここまで尾籠なことが記されるといささか、ウンザリするがこれほど吾々の御魂が

曇っていると言う
事でも有ろう。又銅木像と言う正体不明の奇怪な機械が登場する。銅と木で出来てい

ロボットは何の化け物か
神の化身で有る事は理解出来るが、読者の想像に任せるみたいな記述には歯が立

たな
い。繰り返し読んで覚れ、と言う事か。19世紀後半から登場するジャイロスコープも、機械文明も同

じ時期
で物語に取り入れられる。

従って銅は一つの時代を表すとも言えよう。ミロクの世の黄金時代に向かって、今はまだまだと言う事か?

弥次与太二人が鼻汁攻撃をされている脇で音彦は泰然自若としている所など、神は手を替え品を替え1人

1人の改心に苦心されている様に思われる。私も出来るだけ神に縋ってご用したく思う次第です。

                                         三輪 光佳

次回は12月22日です。