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教室レポート(69)        2010




金沢・富山教室 5月19日(水)  


5月19日〈水〉 金沢教室 午後1時30分より

第12巻第10章~12章までを勉強。

この巻は、第一篇は人の心の天の岩戸開き、第二篇は宣伝使の心の岩戸開き、第三篇は厳と瑞の

系統の心の岩戸開きとされています。ここで、改めて天の岩戸開きを考えてみましょう。

現代は通信機関(インターネット等)はほんの数秒で世界を一周し、交通機関も3から4日で一

周できるでしょう。医学もほとんどの病気か克服されています。食事も日本にいながら世界の食品

が手にはいります。まさに物質文明は極度に発達しています。しかし一方精神文明はどうでしょう

か、殺伐とした世の中は殺人事件の話題を聞かない日はありません。家庭や学校で人を殺してはい

けない、盗みはいけないと教えながらTVの中のドラマでは連続殺人事件が毎日のように起こり、

最近は銃を当たり前のように使用しています。ケームの世界でコンプリートとか言って盗むことが

正当化されています。そして、食糧自給率40%の国民は地球の何処かで明日の食べ物に苦しんでい

る人のことはほとんど考えません。自分と其の周辺だけの世界にいます。我々の心はどこを向いて

いるのでしょうか?

神様はこの世をお創りになる際、すべてのものが幸せに楽しく暮らせる世(弥勒の世)を目指さ

れました。今はその途上とはいえ、もう終盤に差し掛かっています。

物質的には世界は一体化されてきたのに、人の心にはまだまだそこまで行っていません。我々は神

の普遍的愛によって生かされています。しかし、普段の生活では特別な事件がない限り、我々が思

い及ぼす愛は家族や住んでいる地域までで、もう少し広げても国の範囲を超えられる人はほとんど

ありません。多くの人の愛は自己愛です。政治家や学者など知識人と言われる人も、愛の範囲を世

界にまで広げる人はほとんど無いでしょう。今こそ普段の生活の中に、人類と言わず全ての物に気

を配る公共的愛が必要ではないでしょうか。

第一巻発端には『霊主体従の身魂を霊(ひ)の本の身魂といひ、体主霊従の身魂を自己愛智(ちし

き)の身魂といふ。霊主体従の身魂は、一切天地の律法に適ひたる行動を好んで遂行せむとし、常

に天下公共のために心身をささげ、犠牲的行動をもって本懐となし、至真、至善、至美、至直の大

精神を発揮する、救世の神業に奉仕する神や人の身魂である。体主霊従の身魂は私利私慾にふけり、

天地の神明を畏れず、体慾を重んじ、衣食住にのみ心を煩はし、利によりて集まり、利によって散

じ、その行動は常に正鵠を欠き、利己主義を強調するのほか、一片の義務を弁へず、慈悲を知らず、

心はあたかも豺狼のごとき不善の神や、人をいふのである。』とあります。

今心の岩戸開きといった時、岩戸を開くべき対象を何処に持って行けばよいのでしょうか、それ

は神に向かって心を開くことではないでしょうか。

岩戸を開くという事は逆に言えば岩戸が閉じられていると言う事です。多くの人は自分の心を神に

向かって閉ざしていることに気付かずにいます。古事記では天照大御神様が岩戸を開けられると天

地は明るくなりました。我々は反対に、神の教えを勉強し実践することにより心の岩戸が開け、神

様から光と熱を頂けるのです。



富山教室 PM7:00~

第13巻第3章~6章までを勉強

この巻は後に大活躍をするウラナイ教の半ダースの宣伝使のお話です。竜宮の一つ島から故郷アー

メニアに帰る途中で鶴山丸の船中で暴風にあい、日の出別命に宣伝歌で改心を迫られるところです。

歌い終ると暴風波浪は静まり、船中の人々は神徳に驚嘆の目を見張ります。音彦、梅彦、駒彦、

亀彦の4人は日の出別命の神力の偉大さに三五教を信仰しようとしますが、岩彦だけは6人のリー

ダー格という自負心からか、なかなか帰順できません。神はこれと目を付けた神司には木の花姫命

や日の出神のような神人を使ってとことん修行をさせます。どんな修行になるのか今後の展開が楽

しみです。

                                                     阿良田記

 

次回

金沢教室  6月15日(火) 午後 1時より  12巻

富山教室  6月15日(火) 午後 7時より  13巻


青梅教室 5月24日(月)  


5月24日、19時~   於、青梅市民会館

今月は12巻、第25章~30章まで勉強しました。第4篇古事記略解を中心にして12巻全体を

振り返って、物語の流れを追ってみました。この12巻は人民の岩戸開き、宣伝使の岩戸開き、

々の岩戸開きが主題として展開されているが、それとは別に三貴子の誕生から岩戸
開きまで古事記、

略解、物語本体、と三通りの解釈が副題として存在する。しかし略解の中で
明らかにされている、

三女神が真正の瑞の御魂の霊性で有ると言う解釈が、本体の中では三女神
の活動が示す如く救いの

神業の具体的説明がなされており、意味からすれば、こちらが『主
題』と思われる。

略解の中で繰り広げられる《古事記の読替》と物語本体の記述は連動しており、真の岩戸開きと

霊の存在を理解する時、現在吾々が濃霧の中を彷徨っているがごとき閉塞感に一条
の光を見いだす。

天照大御神から素さ鳴尊へと滔滔と流れる大河は、あらゆる物をつつみ清
めて救いの神業の本体を

示す。これは厳霊信仰から瑞霊信仰へのあり方を詳細に教示された《教
本》で有る。

この12巻に籠められた聖師の思い、意図はなんで有ったか?

1, 古事記を読み替える事により、逆転の発想を示した。変性男子、変性女子は最初から逆転して

  いる。(眼が出来て鼻が出来るー鼻が出来て眼が出来る)

2, 国祖隠退後(艮、坤系神々引退)の世界を治めたのは盤古神王系神々で有り、それは明治25

  年まで続き、その系譜の中に天皇制が有る。

3, 天照大御神は厳の御霊で有る。開祖も厳の御霊で共に疑い深い。これは霊性の因縁。

  聖師が大本入りした当時、聖師を悪く表すふでさきが沢山存在した

4, 神代の体主霊従の神々が天租国祖を追放したが、時節巡りきて再現の経綸を仕組まれたのが

  本出現の意義で有り、それを掌中にして顕れたのが聖師で有る。

以上が今月の成果で有り、今後の活力の源としたい。


次回6月28日、7月26日

                                    
      三輪 光佳


八重洲教室 5月29日(土)  


 秋山彦の館がある丹後由良海岸から沓島・冠島が非常に近く見える。

今年は沓島・冠島開き百十年にあたり、十年毎の記念参拝が7月7日に行われる。出口孝樹先生が十

年前に行かれた時の様子等を詳しく聞いた。

             

 また5月22・23日に行われた龍宮神社・鉢伏山祭典の話を聞いた。

日本海の一番深い所が隆起して鉢伏山になったとのことで、天と地が逆転したとも言うべき価値観の

逆転を示すような、昭和21年に聖師が最後に開いた場所だそうだ。


 第十六巻  第五章 秋山館   第六章 石槍の雨   第七章 空籠   第八章 衣懸松

 第五章では神素盞鳴尊の歌にある「漂浪(さすらひ)」の意味は贖い、あるいは祓いの意味があり、祓戸四柱の

速佐須良比売は素盞鳴尊とも言われていることを学ぶ。

 第六章冒頭の歌は「綾の聖地行」と言われ、神素盞鳴大神、国武彦命他が由良海岸から由良川を遡っ

て綾部に行く場面。その後、桶伏山の蓮華台上に登り、三十五万年後の再会を約し、神素盞鳴大神は

丹頂の鶴に乗り去って行き、国武彦命は四尾の山に姿を隠す。孝樹先生が四尾山に登り、遭難しそう

になった話等を楽しく聞いた。

                  

 次回 6月26日(土)第16巻
    7月10日(土)
    8月 7日(土)                            桜井道彦記