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教室レポート(65)        2010




和歌山教室 1月16日(土)  


 当和歌山教室では年初に信一先生にお越し頂き勉強会を開催するのが恒例になっておりましたが、

今年はそれも叶わず、真に無念の極みとしか言う他なく、先ずは先生を追慕し黙祷を捧げて勉強会に

入る。

 今回は、初心に返り第1巻から、「序」の後の件、一字か二字、神名の・・・・切に注意を乞う次

第なり。と有るが、これをそのまま受け取るのではなく(物語全巻を通して)、聖師の真に伝えむと

する所を口述刊行された時代背景をも充分に考慮し奇魂を働かして読み解く必要性があると前置きし

て、第24章 神世開基<ヨハネ>と神息統合<キリスト>を拝読。

最後の処で、・・・故にキリストは、かへってヨハネの下駄を直すにも足らぬものである。云々・・・

と書かれている処など、明らかに矛盾した表現である。

 それ故に、最後の最後に、

                耳で見て目できき鼻でものくうて

                    口で嗅がねば神は判らず

                耳も目も口鼻もきき手足きき

                      頭も腹もきくぞ八ツ耳

と書加えられた、真意を悟るべきと、今改めて実感する次第ですが、皆様方如何でしょうか?

 時恰も、テレビのニュースで、日本の研究チームが新星の誕生の瞬間をとらえたとの報道あり、

画像での詳細解説を見れば、まさに第1巻第20章「日地月の発生」の表現を彷彿とさせるものでし

た。

 聖師信奉者ですら、あの「神示の宇宙」さえなければ、・・・と言って憚らぬ人も多いと聞くが

いずれ近い将来科学が驚異的に進歩すれば、これとても正しい事がちゃんと証明される日が来るで

あろう、否もうすでに開明されつつ有るあるようだ。

 世はまさに政治、経済、教育、その他あらゆる面で行詰まり、混迷の度を深め、加えて自然環境

人間のエゴにより益々悪化し天変地異到る処で頻発し、さらには2012年人類滅亡説がまことしや

かに
囁かれておりますが、斯かる今こそ救世主たる瑞霊の教えをしっかりと学び、1人でも多くの人

その福音を述べ伝える尊き使命を今更に深く自覚し実践行動していかねばなりません。

 幸いに、信一先生が我々に遺し給ひしこの勉強会のネットワークを最大限に活用し、また宣伝使

会の今後の充実発展に期待し、共々に切磋琢磨し手を携えて前進してまいりましょう。


                     神縁深き瑞乃部<みなべ>の里より、田上 雅春 拝



富山教室 1月22日(金)  


第12巻 第17章 雲の戸開~20章 救いの船 までを勉強しました。


第17章では

国武丸が暴風に遭い沈まんとするとき石凝姥の神の宣伝歌に救われ、橘姫のお歌により神の福音を

聞きます。

第18章は

甲(牛)『・・・兎も角、心の誠一つに神が宿つて下さると云ふ事丈は承知が出来たよ』

乙(馬)『それだから、おれが何時も云うて居るのだ。神を認める迄のお前の心と、神を認めてか

らのお前の心と、どれ丈け違ふか』

甲『何だか今迄は此の世の中が不安で、向ふが暗い様で何時も恟々(びくびく)として、世間を怖

れ人を疑ひ、遂には女房迄疑つて、修羅の妄執に悩まされてゐたが、今日は初めて世界晴れがした

様な爽快な心になつたよ。これと云ふのも矢張吾々を守り給ふ、大慈大悲の神様の御恵みは云ふも

更なり、三五教の宣伝使が真心籠めて、天地にお祈り下さつたお蔭だナア』と言っていますが、時

置師の神が近づいてくると。 

 丙(鹿)が『・・・オイお前達もお礼旁、コーカス山で御無礼を働いた事をお詫びしようぢやない

か』 と言うと、これまでの行いを考え、心にやましいものを持つ甲(牛)は『・・・迂闊名乗つて

出ようものなら、今度こそ、どんな目に逢ふか分りやしない。マア知らぬ顔して居る事だなア』 と

関わりを持たぬようにしようとします。しかし、かまわず近づいてくる時置師の神を恐れて、甲は

海に飛び込みますが時置師の神の祈りと琴平別の大亀に救われ改心します。

一方、第19章では

改心の出来ない他の三人、馬(乙)、鹿(丙)、虎(丁)は時置師の神の行動を見て恐れ、過去の自

分たちの犯した罪を考え、何とか隠そうとして、内輪もめまで始まります。17、18章では改心

が出来ていたかに見えた馬公も、着物を脱いで逃げる準備をします。

自分に不正(心にやましいこと)があると(体主霊従的行動をとっている)人は、正義(神の言葉

や行い)に対して恐れを抱くものです。それは、我々は普段から何にも恥じない正しい生活が出来

ていないのに他人の行動を批判したりする事につながります。

馬公(乙)のように16章や17章ではなるほどと感心するようなことを言っていても、いざ自分の

身に危険が迫るとうろたえ、手回しよく逃げる準備を始めます。神の教えを頭の中だけで理解して

いては魂が座っていないため、まさかの時には役立たないものです。

(ちょうど私自身を見ているようです)

物語の中にもあるように発根(ほっこん=心からの、決して崩れることのない)の改心が出来て

こないと駄目です。言い換えれば魂が副守護神に支配されているからです。多くの人は普段、体主

霊従的行動をとっているため、神の光を受けたとき素直に改心できずその場を何とか逃げようとし

たり、相手が弱者だと見たら攻撃します。しかし、更に神の光によって正守護神の働きに立ち返り、

本守護人となるものだと思います。

物語も1度や2度読んだからと言って発根の改心は出来るものではないでしょう。常にそうした意

識を持ち、瑞の御魂の言葉(霊界物語)に心を洗い清浄無垢の魂になるよう努力して行きたいもの

です。

そして、有り難いことに20章では皆が本当の改心が出来たようです。

                                                  以上阿良田記。

次回2月19日(金) 午後7時より