教室レポート(64) 2009
金沢教室 12月11日 午後1時より
第12巻4~6章を勉強
霊界物語の勉強会は出口信一先生が亡くなられたからといって終ってしまうのでなく、続けて
行くことこそが聖師様や信一先生が目指された世界を実現するに至る道である。物語は信仰的面
だけでなく日常生活の処世訓や、疑問に思う事、理解できないことを解決するヒントともなり、
大本の経典と言ってしまうと小さくなるが、聖師はそんな小さな大本だけのために口述されたの
ではなく全人類、全宇宙のために物語を発表されたと述べておられます。
12巻は全体が天岩戸開きをテーマとしています。天岩戸開きは古事記や日本書紀にある日本
神話の一断片と捉えてしまいがちですが、聖師(霊界物語)が示された天岩戸開きは悪しき心の
状態から解き放つことであります。第一編は人の心の天岩戸開きであり、一人ひとりの心の中の
悪心を本当の神の言葉、真理を聞いて目覚める、自分の心の中の執着や名利心、虚栄心などから
解き放たれること。即ち改心することであります。次に、第二篇では神の言葉を伝える宣伝使の
天岩戸開きです。第3篇では大本の二つの系統である厳御霊(開祖)と瑞の御霊(聖師)の関係
における対立の中での天岩戸開きであります。
序文では筆先について述べられており、筆先の真意を理解するには霊界物語によらなければな
らないと書かれ、現在の我々が読んでいる霊界物語では「筆先の解説書であり、確言書であり」
と書かれています。しかし、口述された初めは預言書と書かれていたが、昭和9年の校正で確言
書と直されたとのことです。
第4章で、初公が蚊取別にみんなを助けるように頼むと
蚊取別『お前が俺の行つた様に手を組んで、皆の者にウンと一声かけて見よ。忽ち旧の通りにな
るのは請合だ。併し神力が現はれても、お前の力だと思つたら違ふぞ。九分九厘まで神様のお力
だから、さう心得ろ』
初公『行つても可からうかな。私の様な素人がウンを行つても利くだらうか』
蚊取別『それが悪いのだ。自分が行ると思ふから間違ふのだ。お前は唯神様の機械になる丈
だ。サア手を組むで一同に向かつてウンと行つて試い』
とあります。また、初公が『それもそうだ…………モシモシ、蚊取別の宣伝使様、此斧公にも許
してやつて下さいナ』
蚊取別『私が許すのぢやない。三五教の教が有難いといふ事が分れば、神様が直接に御神徳を授
けて下さるのだ。モシモシ斧さまとやら、神様はおのぞみ次第、おのおの身魂相応の御用を仰付
けられるのだから、十分に魂を研きなさい。初さまが此町に居るとお前達は気を許してもたれる
気になるから可かない。初さまが此町を立去つたが最後、皆の心が引締り、人を杖に突くといふ
依頼心がなくなつて了ふ。さうすれば力と頼むのは神様ばかりだ。そこにならぬと御神力は与へ
て下さらぬ。
マア安心して大神様を信仰しなさい。天下の宣伝使は決して嘘や掛値は言はぬ。・・・』
とあるように自分がしたのだと思うとそこに慢心が生まれる、神様のお力を得てさせられたのだ
と思わなくてはいけないし、他人にもたれてもいけないと示され、他人を頼ることの出来ないせ
っぱ詰まった状態にならないと神様を求める心が生まれない。自立した信仰が必要と説かれてい
ます。とのお話でした。
以上から、人は神に一切をまかせた上で、依頼心を棄てた自力の心と自分は何でも出来ると自惚
心を棄てた他力の心が必要だと感じました。
また、物語は大変滑稽に書かれており、12巻は霊界物語フェスティバーロで上演されたように、
そのまま神劇の題材(脚本)となり、表現は狂言の様に面白く、こうしたものが宗教の経典とな
るのは一般的には考えられないところで、大本の特異性がある。等のお話がありました。
富山教室 12月11日(木) 午後7時より
第12巻 第13章~16章を勉強
第1編では大蛇の背中に乗せられたように心の慢心があった。第2篇は宣伝使の改心である。
三篇は厳と瑞との系統の神々の争いから改心が明らかになる。古事記は一見神話として稚拙な話
に見えるが、言霊学によって解釈すると時代に応じた予言書であると聖師はおしめしになってい
ます。
第12章では蚊取別が『・・・この蚊取別は、もと大自在天の臣下たりし蚊取別に姿を変じ居れ
共、実は贋物である。我はある尊き神の命を受け、宣伝使の養成に全力を注いで居るもの、実際
の処を言へば大化物だ。・・・』と言い、高光彦は『・・・蚊取別の宣伝使はこれや屹度三十三
相に身を変じて御座る神様ですよ、・・・』と言っている。三十三相は瑞の御魂のお働きであり、
正に宣伝使の養成を神務としておられる木花姫の命である。初公は蚊取別が傍に居ると思い安心
して真剣に宣伝歌をあげると暗黒であった世が微かながらも日の光がさします。師匠を杖にせず
神だけを頼りに行動することが必要です。
玉光彦『・・・先づ自分の霊に憑依せる悪魔を追出し、清浄潔白の霊になつた上悪魔を征服する
資格が初て出来るのだ。大瀑布に悪魔が居ると思へば、豈図らむや、自分の心の奥に白瀬川の大
瀑布が懸り、そこに大蛇の悪魔が巣ぐうて居るのだ。身外の敵は容易に征服出来るが心内の敵は
退治が出来難い。先づ深雪の滝の悪魔に突撃するまでに、各自の悪魔を征服し、或は帰順せしめ
て後に掛りませうか』とあり、ここに初めて祝姫や三光の宣伝使、初公等の天岩戸が開けたので
ある。
14章は謎めいた章です。最後の部分で『・・・ハツと思ふその途端目を開けば、高熊山の
巌窟の前、十四夜の月は早くも弥仙山の頂に姿を隠さむとする真夜中頃なりき。』とあり、亀岡
にある高熊山からは綾部の奥にある弥仙山は見えるはずがないのでこの表現もまた大蛇に騙され
たようなものである。
等のお話しがありました。
報告書を書いているときに、12章で ・・・祝姫は一行五人と共に白瀬川の魔神を言向和すべ
く、館を後に六人連れ宣伝歌を歌ひ乍ら、朧月夜の如き春の日をシナイ山の山麓指して進み行く。
とありまた、14章でも『オイオイ、初公さまお前何を呆けて居るのだ。ここはシナイ山の麓の秋
月の滝の二三町下手だよ』とあります。蚊取別一行はイホの都(エジプト)を出発し、白瀬川
(ナイル川)に有る秋月の滝へ向いますが、そこはまたシナイ山の麓です。現在、シナイ山の
本当の位置は特定されていない事を考えると、もしかしたら本当のシナイ山の位置を暗示して
いるのか?、などと妙な事を考えました。
以上 阿良田記
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