教室レポート(58) 2009
第十九巻の第一回目。
本巻は、高熊山と王仁三郎聖師の前身、玉照彦のご因縁に就いての物語。
第一章『高熊山』 第二章『鶍の嘴』 第三章『千騎一騎』 第四章『善か悪か』
『高熊山』
明治31年旧2月9日、上田喜三郎(のちの王仁三郎聖師)は、天教山の木の花姫の御使松岡仙人
に導かれ、肉体は高熊山の岩窟、四十八個の宝座の下に、霊魂は須弥仙山の頂上に降り立つ。
産土の神小幡明神は、「暫時丹州と現れた汝の御霊は、顕幽神の三界を探検し神業に参加せよとの神
勅により、木の花姫と話し合い我が氏子として生まれたのである。」とその使命と因縁を説く。
また梅花の如き女神が現れ、「われこそは三千年の其の昔、国治立の大神と共に、中津御国の聖地を
後にして、根底の国に到りしが、一度に開く梅花の時を得て、再び天に舞い昇り、今は西王母が園の
桃、花散り実る時ぞ来て、皇大神に奉らむ。・・・、今より汝が命の体を借らむ」と。西王母坤之金
神が喜三郎に帰神される。
高熊山の修行以後の聖師は、三千世界の救世主を自覚され、瑞の御霊の神人として大活躍されること
になる。
『鶍の嘴』『千騎一騎』
十八巻の玉照姫争奪戦の続き。
黒姫は、信任していた紫姫、青彦に裏切られて面目を失い、高山彦と共に聖地世継王山麓に向い玉照
姫を渡すよう談判をする。黒姫は紫姫に対し、権謀術数を弄して玉照姫を横領した行為は、三五教の
精神を破壊するやり方だと逆に改心を迫る。紫姫の天の数歌に目的を果たすことなく逃げ行く黒姫で
あったが、「人の性は善なり」の片鱗をうかがわせる行為は見逃せない。
『善か悪か』
神素盞嗚大神の御直使亀彦より、「玉照姫を迎えるにあたり天地の律法を忘却し、権謀術数の秘策、
反間苦肉の策を以て目的を達した事、ご神慮に叶わず。一旦玉照姫をウラナイ教の黒姫に渡し、紫姫、
青彦は宣伝使の職を去るべし。」との厳命が告げられる。
紫姫は、「目的は手段を選ばずは俗人の為すべき事、宣伝使の身であまり立派な行動ではなかった。
もし、自分たちが殊勲者として大神様より賞賛されれば、三五教の生命は全く滅亡を遂げる。」と翻然
として前非を悔い改める。「これから本当の真如の日月が現れるでしょう。心天の妖雲が晴れました。
お互様にお目出度う存じます。」と心底より大神様に感謝の辞を述べるのであった。
入江記
次回は3月7日(土)PM 1:30~
場 所 大本山口本苑
講 師 出口信一先生
参 加 者 43人
拝 読 第6巻 第29章から第31章、第33章から第36章
北光開眼に感銘を受けていましたので、今回の拝読会に参加できて本当によかったです。三五教の開教
と大本の開教、大宜津姫と今日の世情、まさに合わせ鏡です。古事記と霊界物語、天職と生業等たくさん
のことが学べました。午前中に大本山口本苑婦人会総会があり、婦人会の方々を中心に43名もの参加が
ありました。参加者が順に拝読し、信一先生から講義形式で以下のとおり詳しく解説していただきました。
拝読会後、参加された方々の晴れ晴れとした表情が心に残っています。改めて神様の言葉を自分の魂にし
っかりしみこませたいと思いました。
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混沌としているこの時代だからこそ、神様の言葉を世の中に出していかなければならない。そのために
は宣伝使の役割が何より重要である。学び合うことが大切である。神様の言葉は目には見えないが、霊的
な光となって自分の魂の中に入ってくる。光が入れば熱が出る。そうすると何も畏れるものが無くなる。
神様の言葉は頭で勉強するのではないことがしみじみと分かってくる。
霊界物語の1巻から5巻には、古事記よりずっと昔の神話が書いてある。そこには宇宙の剖判、国祖国
常立命の神政、国祖の御引退、国祖の妻神の豊雲姫の命とともに天教山地教山に鎮まり、いわば世の中を
裏から守護をされる、そのために宣伝使を送られることになる。宣伝使は瑞の御霊の言葉、厳の御霊の言
葉、つまり、野立彦、野立姫の教えをもって地上に降りてくる。いろんな人に神の言葉を取り次ぐが誰も
聞く耳を持たない。そのうちにこの世の中は大洪水になっていく。野立彦、野立姫は天教山の火口から身
を投げ出して贖いをされる。全ての人類を救うために身を犠牲にされる。そのことによってこの地上界は
再び元の世界に戻っていく。そこではじめて、伊邪那岐、伊邪那美が誕生して再び地上界を修理固生して
天のぬほこで汐こうろこうろとかき鳴らして、国生み神生みをする。6巻では伊邪那岐、伊邪那美が出て、
祓戸四柱の神を生み、嶋々を生み、元の地上界になっていく。
第29章 泣沢女
古事記には国祖国常立命の御引退はどこにも書かれていない。1巻から5巻までをしっかり腹にいれて
ほしいという聖師様の願いがある。4巻は聖師自ら筆録なさっており、非常に重要なところ。国祖の御引
退の因縁が書かれているところ。野立彦は国祖のことで、野立姫は豊雲野の神様、つまり、瑞の御霊の神
様のこと。さらに身をやつされる。埴安彦、埴安姫は一番陰から世の中を守護なさる。野立彦、野立姫、
埴安彦、埴安姫の御神格は古事記では何も触れていない。霊界物語を読まないと古事記自体が分からない。
ここでは、伊邪那岐、伊邪那美の大神が高皇産霊、神皇産霊の命令で再びこの地上を修理固成された。
高皇産霊、神皇産霊は、天御中主の大神、つまり、主神の霊と体であり、そこから、伊邪那岐、伊邪那美
の神様が生まれてくる。一時はよいのですが、再び汚れていろんなところに争いが起きてくる。そして大
宜津姫の世となる。11巻に詳しく出てくる、いわば、衣食住に贅沢を尽くすもの、われよし、強い者勝
ちの象徴である。常世姫、金毛九尾に憑依された存在として高楼に住んでいる。今日は大変な競争社会で、
人心が荒廃している。贅沢を止めなさいというのが神様の警告である。質素な着物、質素な食べ物、質素
な住まいというのが基本である。
日本の神話では、伊邪那美の命はかぐつちを生んで亡くなる。聖師はそんなことはないと言われている。
かぐつちは火の文明、滅びの文明と言われる。火の文明から水の文明に変わらなければならない。かぐつ
ちを生んで、伊邪那美の神は黄泉の国に行く。追いかけて、伊邪那岐は黄泉の国に行く。一旦幽界の神に
許しを受けなければならない。しばらく待っていても来ないので篝火を炊いたら、全身にうじがたかって
いた。伊邪那美はその姿を見たので、黄泉醜女を遣わし伊邪那岐を追いかける。伊邪那岐は逃げる時にい
ろいろな物を投げる。全身真っ裸になって逃げる。たちばなのおどのあはぎがはらに禊ぎ祓いをした。そ
の時に祓戸四柱の神が生まれる。その前に三個の桃の実を投げる。伊邪那岐の神は本当は伊邪那美におの
ころじまに帰ってきてほしいと願ったが黄泉の国へ行って帰らない。黄泉の国は死者の国、地底にある。
ところが聖師の見解は全然違い、月の国である。月よみの神とすさのおの神は同じ神だとおっしゃってい
る。
第30章 罔象神
水波の女は正しき人間、和久産霊の神は仁慈の神と示されている。埴安彦、埴安姫は多くの正しき人間
を作ったが、その数は千中の一つにも足らなかったと示されている。
「伊邪那岐、伊邪那美二神は、撞の大御神を豊葦原の瑞穂国の大御柱となし」と書いてある。撞の大御神
というのは「天照皇大御神」のことです。天照皇大御神の正式名称は、「つきさかきいずのみたまあまさ
かるむかつひめのみこと」という非常に長い神名なので最初の頭だけをとって、撞の大神と言う。「豊葦
原の瑞穂の国」とは地球上の全てをさす。日本は「豊葦原の中津国」と言われ、「おのころじま」、地球
上の中核をなすところである。伊邪那岐、伊邪那美は、右守、左守となって、この大海原を修理固成され
たが、次第次第にこの瑞穂の国もいろんな邪気が発生して、優勝劣敗、弱肉強食の暗黒世界を再現する。
国治立命の御神政に比して数十倍の混乱状態が起きてきたということが書かれている。そして人間は自己
保護上、体主霊従的悪がだんだんとはびこってきて、山を独占する神、野を独占する神、国や島を独占す
る神が生まれる。力強きものがそれを奪っていく。弱き者は生命を保つことさえできない。貧富の差がま
すます大きくなり、力の強い者は贅沢三昧の生活をしている。神代のことだが、現代でも同じようなこと
が言える。このことは神様の忌み嫌うところで、このことを「大宜津姫」という。弱肉強食、優勝劣敗、
このことは必ず修羅の現状を呈してくる。雇用の問題、人がまじめに働いても生活できない。人の心がす
さんでくる、社会に犯罪などいろいろなおもしろくないことが起こってきている。こういう時こそ、神の
言葉を表し、あるべき方向を示していかなければならない。これが本来の大本のあるべき姿だ。
第31章 襤褸の錦
盤古大神は、国祖国治立命が隠退された後に、地上神界の支配者として任じられる神で、伊邪那美の神
の手の股から滑り落ちて誕生したと霊界物語には書いてある。本来は正しい神だが、邪神界の御輿に載せ
られて邪神の行動を取るようになった。本来は正しい神なので、日の出の神の宣伝歌に感激して改神する。
ところが盤古大神を支えていた常世彦が自ら盤古親王を名乗るようになる。盤古親王の教えは、極端な個
人主義で、大中教を立てる。大というのは、一人を中心とする教えで極端な利己主義である。世界の情勢
を見ると個人主義、利己主義になってきている。日本の成り立ちは農耕で一枚の田を作るのに大勢の人の
協力を必要とした。一人勝ちの許されない社会的な風潮がある。日本人は一人だけ突出することを嫌う。
欧米の人たちは狩猟民族なので、強い人が大きな獲物を得るというのは当たり前である。日本の社会にも
個人主義がだんだん忍び寄ってきている。邪神界がはびこり、麗しい我々の精神性がむしばまれてきてい
る。
第33章 五大教
「神が表に現れて善と悪とを立て分ける・・・」と宣伝歌を歌いながら東彦という宣伝使がやってくる。
国祖国治立命が隠退し身をやつして、埴安彦となられる。黄金山は、日本で言えば桶伏山、本宮山、綾の
聖地のこと。地球上のこと、トルコのエルゼルムのこと。東彦は、玉の井の郷、穴太のことだが、オリオ
ンの星から降りてきた神で、その時は東雲別と言う。後に、石凝止神の神となる。厳の御霊のお使いであ
る。乞食が「この世に神は本当にあるのでしょうか。」と聞き、東彦は「あるのだ。人間は神の御用に活
用されるために作られたのだ。鳥や獣も神様の厚い恵を受けている。いわんや万物の霊長たる人間に神の
お守りがないはずがない。ただ何事も神様の御心に任せ、今日を有り難い有り難いと生活していれば神様
は花咲く春に会わせてくださる」という。
聖師は人の生き方は二通りあると示されている。一つは肉体的に生きるということである。もう一つは
霊魂を主として生きるということである。多くの人は肉体的生存のことばかりが中心になり、人間は霊的
な存在であることを忘却している。感謝祈願詞にも出てくる天職というのは、本来は神様のお使いをする
ことで、天職とは霊的な生き方である。これに対して体的な生き方を生業と言う。生業には、競争原理が
働き、弱肉強食、優勝劣敗が働く。子ども頃から隣の子どもには成績も絶対負けてはいけないと親は教え
る。表面は仲良くしなさいというが仲良くできるはずがない。天職という生き方はないものだとみんな錯
覚している。人を助けたいという生き方には神霊の働きがあってその人に御守護がある。明日のえさの心
配をして鳴いている鳥は一羽もいない。その日その日をきれいな声を出して生き続けていく。ところが人
間には知恵があるものですから100年後の食料のことまで心配してしまう。自分の生存のために人の物
まで欲しがり争いが起こり、この世を地獄にしていく一番の原因になっている。霊主体従、天職を主とす
ると必ず生業も守護されると聖師はおっしゃる。
第34章 三大教
五大教の立て分けの教えに対して、三大教では、人を呪ってはいけないと諭す。方法論の違いがある。
北光天使は霊鷲山から来る。霊鷲山はお釈迦様が悟りを開かれた所で、インドの山岳部を指す。高熊山の
ことだ。三葉彦は、埴安姫、オリオンの星から降りてきた神である。北光天使もオリオンの星から降りて
きた白雲別という神。霊界物語第3巻の玉の井の郷というところに詳しく書いてある。霊鷲山は三大教の
発祥の地、黄金山は五大教の発祥の地。黄金山は聖地エルサレムの傍らにそびえ立つかんらん山の別名。
綾部の本宮山がひな形として黄金山にあたる。聖師は、本宮山にかんらんの木(やまもも)を植えておら
れる。大本の基本宣伝歌に「誠の力は世を救う」とある。人間の誠というちっぽけなもので世の中を救え
ない。誠という字は一点のほち、三は瑞の御霊、口は言葉を表す。本源の瑞の御霊の言葉は、万物を成し
ている。瑞の御霊の力は万物を救っていく。
第35章 北光開眼
北光天使が竹で片目を突かれ豁然として心の眼が開け、三千世界を通達する霊眼を与えていただいたと
感謝する章である。三大教では、人を呪わず、人を裁かず、人は何より忍耐力が大切である。何事も神様
の御心のままである。人間は自分の運命さえ思うようにならない。神に任せるより仕方がない。他力によ
って安養浄土に救ってもらおうというのである。善悪正邪は到底人間の判断することのできない。北光天
使はオリオンの星から地上界に降りて来る。穴太の里、玉の井の郷である。名前は白雲別。のちの天の目
一箇神。霊界物語36巻では、シロの島、セイロン島でサガレン王を救済していく。神力無双の神。バイ
ブル、マタイ伝という難解なところの解釈が北光天使によってなされていく。瑞の御霊の一柱である。
「天地の大神様に感謝申し上げます」という場面で、天津祝詞が奏上される。重要な祝詞である。神言
の中に、「天津祝詞の太祝詞言を宣れ。かく宣らば」とある。ここに天津祝詞が奏上されなければならな
い。聖師は、太祝詞とは天津祝詞だと伝える。大天主太神は、本源の神のことである。本源の神様が、地
上界を祓い清めていく。天の児屋根の命が、一番最初にのりあげたことばが天津祝詞だ。東雲別(東彦、
石凝止の神)、白雲別(北光天使)、青雲別(天の児屋根の命)の三つの御霊が穴太に降りてきた。
第36章 三五教
三大教と五大教が統一して三五教が誕生する。黄金山麓の埴安彦のところへ東彦は、帰って三大教の教
えを報告をする。埴安彦は、国祖国常立尊のことであり、開祖のことでもある。そして、使いを霊鷲山に
遣わした。三葉彦の神は三大教の教祖だが、現界では聖師のこと。埴安彦は肉体は女神で魂は男性です。
変性男子。三葉彦の神は変性女子。両教が合意したことは、明治31年開祖と聖師がお出会いにつながる。
再び明治32年にお出会いになる。その時に聖師は開祖との御修行を同意されることを決意される。大本
の歴史と、三五教の合意が機を一にしている。神代に三五教が成立し、合わせ鏡のように、開祖と聖師の
出会いによって、大本が出現した。こういった深い因縁が、我々の大本にある。
多賀谷記
寒い日本から南国の台湾へ、台北に降り立った途端になんと暖かいと感じたのが、その足で台中に着いて
更にその感を強くした。
今回は、母の喜寿の記念に姉と3人の水入らずの観光を兼ての訪台。
18日昼間長谷川さんの車をお借りして3人で日月譚を廻り、夜、新築成ったばかりの社屋兼住宅の5階の
広間へ御神号を移し奉斎して礼拝の後、第11章「木茄子」を拝読。
ちょうど、この時期休暇を利用して中国語の勉強に来られていた、長谷川さんの甥子さんも加わり総勢8
名での今までで最も賑やかな勉強会となった。
真道彦命の危難と台湾島の窮状を救う為に国魂神竜世姫命の神勅により日楯、月鉾、ユリコ姫の三人は琉
球の南の島へ向うべく、アーリス山より須安の山脈を峰伝いに渡りテルナの渓谷にたどり着く。
道中は飲まず食わずで、空腹に耐えていたところ、運よく木茄子を見つけとって食べ眠りに付く。ところ
がこれはこの里に1本しかないバラモン教の祭典に供える為に大切に守り育てていた物であり、大問題と
なり、里の酋長ゼームスが怒り三人を生贄にすると言うのでユリコ姫が許しを乞うと「わが妻に成るなら、
お前だけは許してやる」と迫るのをなだめ、日楯、月鉾の二人がバラモン教の火渡りの荒行をする事を条
件に三人とも許される。
日楯、月鉾の二人は天の数歌を唱えながら猛火の中を何の手傷、火傷を負うことも無く無事に火渡りの行
を終える。一同これを見てその神力に肝を潰す。
ユリコ姫と酋長ゼームスが斎壇に立つや忽ち火光飛び来て爆発しゼームスは中空に巻き上げられる。
ユリコ姫は日楯、月鉾と共に祭壇の前に立ち感謝祈願の祝詞を奏上し宣伝歌を歌う。
其の祈り終わると、中空に巻き上げられた酋長ゼームスは礼服を着て四、五の従者と共に珍しい果物を持
ち来り三人に捧げ、涙ながらに無礼を詫びる。
「・・・尊きあなた方に対し、ご無礼な事を申し上げました。・・・吾々如き賤しき者の女房になれとか、
火渡りをせよとか、いろいろの難題を申し上げました無礼の罪、何卒お許し下さいませ。これも全くバラ
モン教の掟を遵奉致しての言葉で御座いました。只済まなかったのは尊き女神様に対し女房になれと申上
げた事のみはバラモン教から申しても大なる罪悪で御座います。其の為、大自在天様の御怒りに触れ、天
より戒めの大火弾を投げつけられ、・・・最早命は無きものと覚悟いたして居りましたが、国魂神竜世姫
様とやらの厚き御守りに依って大切なる命を救はれ、且ついろいろの訓戒をうけました。・・・どうぞ此
の杖にて私の身体を腹のいえる迄打ち据え下さいますれば、罪の一部は購へられるものと心得ます。・・
・」と逃げ散った数多の里人は追々に集まり来り、何れも一つの負傷の無いのを不審の思いをしながら、
酋長の此の態を見て、一同は三人に手を合し、神の如く尊敬の意を表し、拝み居る。
三人は三五教の教理を諄々と説き諭し酋長以下数十人に守られて数日の後、ようやくキールの港に辿り着く。
「木茄子」を採って食べる件(くだり)が紀州が舞台の23巻の第5章「親子奇遇」の竜神の柿を採って食
べる話に酷似しているのと、前章の章題「縺れ髪」と同じ章題が23巻第8章に有るのを見ても、やはり台
湾と紀州の因縁の浅からぬ事を再認識させられるところである。
さて、此の章題の「木茄子」っていたい何?という話になり、話題が盛り上がった。
以前の愛善苑(いづとみづ)さんの研修資料では、“アボガド”のことではないかと一応結論付けされていた
が、むしってそのまま食べるには、食べられないこともないが、ちょっと無理があるのでは?ということで、
吾々の導き出した答へは、台湾で芭楽(パラ)といわれている“グァバ”のことではないか、と言う意見で一
致しました。
分厚い皮に覆われていてクリーミーな実の中に小さな種がたくさん有っていちいち取り出すのが面倒ですが、
其の皮ごと丸かじりして気にせずそのまま呑みこんだり、種を噛み潰したりして食べても何ら問題なく、又、
その種の混じったクリーミーな実の部分を取り除き、分厚い皮(果肉)の部分を食すのがちょと改まった一般
的なデザートとしての使われ方である。
今年5月5日からの台湾研修旅行に参加され一度実際にご自分の舌で確かめてみて下さい。
う~む、なるほど!とうなづかれることでしょう。本当にみずみずしくて美味しいですよ。芭楽の外にも珍し
いトロピカルフルーツがいっぱいありますし、何といっても阿里山から拝むご来光は実に幻想的で神秘的な光
景です。
またとない台湾研修の旅にお一人でも多くご参加頂き人類和楽の平和な御代の到来を共々にお祈りさせて頂き
ましょう。
田上記
出口先生の都合により阿良田が代講させていただきました。
金沢教室 2月24日(火)午後一時より
先月から新しい方が三名増えましたので、物語から離れ大本の教えの基本を復習するつもりでお話しさせて
いただきました。
富山教室 2月24日(火)午後6時30分より 6巻
第6巻の第29・30章及び33~35章を拝読。内容は先月の金沢に同じ。
阿良田記
次回
金沢教室 3月26日(木) 午後 1時より 11巻
富山教室 3月26日(木) 午後 6時30分より 11巻
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