教室レポート(160)        2017












大阪教室 12月13日(水)  


 冒頭では讃美歌の話。大本では昭和2年4月に祭典の後、霊界物語第61巻・62巻の讃美歌

を歌うこととした。明治36年にプロテスタント5会派が合同して讃美歌を作ったが、王仁三郎

聖師はこれにならって歌わせる様に讃美歌を作った。霊界物語第60巻の「三美歌」をメロディ

ーに合せて歌ってみた。 


第28巻  第一一章 木茄子  第一二章 サワラの都  第一三章 唖の対面

      第一四章 二男三女


 日楯、月鉾兄弟に神懸りがあり、兄弟はユリコ姫を伴い琉球の南島の照彦、照子姫の救援を求め

る為、琉球に向って行く。途中バラモン教の祭典に供えようとしていた木茄子を食べた為、烈火の

中を渡らせられるが少しも火傷せず、バラモン教のゼームス等はその神力に屈服する。

 琉球のサワラの都の照彦王の館に至り、三日三夜無言の行をさせられた後、向陽山の常楠仙人の

元に向う。

幾多の試練に会いながら大蛇の所有していた赤玉、白玉、大中小の鏡の神宝を受け取る。


 最後に宣伝歌の披露。今日はアメイジング・グレイスのメロディで「三千世界の梅の花・・・」。


    次回 1月10日(水) PM7:00~

                                 桜井道彦記



高岡教室 12月14日(木)  


金沢、高岡共通

愛善世界誌平成29年12月号に掲載された霊界物語第6巻第1章「宇宙太元」を拝読。

この宇宙太元に書かれている事は吾々が住む現実世界の有様を書かれたものでありません。宇宙

創造神(大元霊)である天御中主神が我々からはうかがい知ることの出来ない、「幽の幽(一

種無形、無声、無色の霊の世界)」の世界に居られて、霊物をお造りになる処から始まって、

万有を完成させるまでのお話です。


★ 大宇宙の元始に当って、湯気とも煙とも何とも形容の仕難い、一種異様の微妙のものが漂っ

て居た。この物はほとんど十億年間の歳月を経て、一種無形、無声、無色の霊物となった。

れを宇宙の大元霊と云う。我が神典(記紀神話)では、天御中主神と称え、〔仏典では阿弥陀如

来と、キリスト教ではゴッド等宗教や地域によって様々に呼ばれる〕。


 宇宙の大原因たる一種微妙の霊物、天御中主神の純霊は、遂に霊力を産み出した。これを霊系

の祖神、高皇産霊神と言う。


 次に元子(又元素と云う)を醸成した。これを体系の祖神、神皇産霊神と言う。霊は陽主陰従

であり、体は陰主陽従である。


こうしてこの二神の霊と体により、一種異様の力徳を生み出された。これを霊体と云う。ここ

までに三十億年の歳月を要し霊力体のやや完全なものが出来たのである。日本の古典では、これ

を造化の三神と言う。


《始めに霊素が10億年をかけて出来上り、一種無形、無声、無色の霊物(純霊)は形を造り霊

体となった。次ぎに体の素である水素(元素)が生まれた。霊系の祖神を高皇産霊神と言い、

体系の祖神を神皇産霊神と言う。ここに、この二神即ち霊と体が結び(産霊)合って、やや完

全な霊力体が生まれた。ここまでに30億年が経過した。》


★ さらに進んで完全な水素を産み出された。水素は次第に集合して清水となった。この清水

には高皇産霊神の火霊を宿し、よく流動する力が備わった。水を動かすものは火である、火を

働かすものは水であることは、第四巻《神示の宇宙》に述られている通りである。


  〔此の水の流体を、神典では葦芽彦遅神と言い、これに霊系即ち火の霊が宿って一種の力徳

を発生し、動物の本質となった。神祇官所祭の生魂の神とはこれである。〕


 次に火水が化合して一種の固形物が発生し、宇宙の一切を造り出す根元力となった。これを常

立神と言い、剛体素と言う。神祇官所祭の玉留魂である。金、銀、銅、鉄、燐、砂、石等はこ

の玉留魂を最も多量に含み、万有一切の骨となったのである。この剛体素、玉留魂を完成する

迄に、宇宙の始めよりほとんど五十億年を経過している。ここに海月のように漂う宇宙は、漸

く固体を備えるようになった。


  この水を胞衣として創造された宇宙一切の円形なのは、水の微粒子の円形である事に基くの

である。常立命の神威の発動によって、天地が別れ日、地、月、星晨はようやく形成された。

しかし大宇宙の一小部分である我々が住む宇宙の大地(地球)は、台形の山と、剛流の混り合

った泥海のみであった。


  ここに玉留魂の神はその神徳を発揮して大地の海陸を区別し、清軽なるものは靉いて大空と

なり、重濁なものは滞って下に留まり大地を形成した。しかしこの時点ではまだ宇宙の天地に

生物の姿は見当たらなかった


★ ここに流剛、即ち生魂と玉留魂との水火を合せて、不完全な呼吸を営み、植物の本質である

柔体足魂を完成した。これを神典では豊雲淳命と言う。いよいよ宇宙は、霊、力、体の元子剛、

柔、流の本質が完成された。しかし宇宙は形が整っただけで、そこに活躍する霊魂の本格的活

動は未だ開始するまでに至らなかった。


葦芽彦遅神= 動物= 生魂     常立神= 固形物体(剛体素)=玉留魂  

豊雲淳命=  植物= 足魂


  此等の元子と原因(ある物事や状態・変化を引き起こすもとになる)とは、互に生成化育し、

力は益々発達して、動、静、解、凝、引、弛、分、合の八力を産み出した。この八力が完成し

て始めて宇宙の組織が出来上がったのである。大空に懸る太陽は無数の星晨の、相互の動、静、

解、凝、引、弛、分、合の八力の互いの活動によって、その地位を保ち、大地も又この八力に

よってその地位を保持する事が出来るのであるこうして大宇宙が完成するまで殆ど五十六億

万年を経過している。


《 動 =動かす 静 =止める / 解 =溶かし 凝 =固める / 引 =引寄せる 弛 =緩める

 /  合 =合わせる 分 =分ける  の四組の相反する力》


★ こうして大宇宙の大原因神である天御中主神は、五十六億万年を経て宇宙の全てを創造し、

茲に大国常立命と現れられた。そして霊魂を分けて我が宇宙に下しなされのが国常立命である〔

ここに宇宙の主宰神として顕現された無限絶対の力を、大国常立命と称するのである〕。


国常立命と豊雲野命(又の御名、豊国姫命)は剛柔の力を合わせて、地上に動植物を生成化育し、

二神の水火(いき)より伊邪那岐尊、伊邪那美尊の二尊を生み、日月を造って、その主宰神とな

さったのである。


  国常立命の仁慈無限の神政も、星移り年重なるに連れて妖邪の気は宇宙に拡がり、遂にこの

邪気のために、一時は「独神而して隠身なり」の必然的経綸が行なわれる事になったのである。そ

して『霊界物語』の第一巻より六巻にかけて口述するところは、大宇宙の完成する迄に五十六億

万年を要した時より以後の事を述べられたものである。これより以前の事は、神々とって完全に

花々しい御活動はなく、宇宙の形成は時の力によって進歩発達し完成を待たれたのみである。



《大宇宙の根本の神である天御中主神は、宇宙創造の始めから五十六億万年を掛けて宇宙の全てを

創造された。そしてそのお働きを大国常立命となって現れ(宇宙の姿)、その霊魂を分けて我が

宇宙(大地)に下されたのが国常立命である。大国常立命は大宇宙全体を御支配に成り、国常

立命は地球を治められる神様である。五十六億万年の宇宙完成の時点では山河草木は出来上がった

が人類はまだ産まれていなかったので、神々様は顕の世界で働くことが出来ず、従って「しか

し宇宙は未だその活動を開始するに至らなかった。」のでである。》



高岡教室 


霊界物語第20巻第10章「山中の怪」を拝読。

前半の宣伝歌は田子作によってこれまでの経過が歌われている。赤児を抱いた女(金毛九尾か古狸

か)が出てきて一行を嬲って消えて行く。やがて夜となって大木の根元に横臥すると、気の小

さい原彦は眠れないので田子作に話しかけると田子作は原彦が病気となった原因を話し出す。さら

にそれを宣伝歌でも歌う。

その時、闇の中より婆の声で三国ヶ嶽の鬼婆と名乗り美味そうだから食ってやると言う。これ

に対し田子作はかねて留公との打ち合わせが出来ているのか、まだ出てくるのが早すぎると言いま

す。


                                                  以上阿良田記



金沢教室 12月18日(月)  


霊界物語第18巻 第10章「赤面黒面」、第11章「相身互」を拝読。


第10章の「赤面黒面」に黒姫は「神憑には公神憑と私憑がある」と言っている。人に霊が乗り移

ることを憑依と言うが、それには帰神と神懸、神憑がある。


霊界物語第四八巻 第一章「聖言」に以下のように書かれている。

帰神:主神の神格が直接人間に降る場合。我精霊の本源なる大神の御神格と帰一和合すること。

神懸:霊国にいるエンゼル(大神の御神格に照らされ、知慧証覚を得た天人)が人間の精霊

に降り、神界の消息を人間界に伝達すこと。


   神憑:外部より人間の肉体に侵入し、罪悪と虚偽を行う所の邪霊。之を悪霊又は副守護神という。

そして神憑には黒姫が言うように私憑と公憑があるようだ

行き先に迷う荒鷹、鬼鷹に丹州は「その時々に神が懸って知らしてやるから、安心して行け」

と言って姿を消す。神の御綱につながれた人は先のことなど余り考えずに、神を祈って暮らせば

良いのである。吾々は独立して自分の意思で何でもしているように思っているが、その実は自分

の目に映る物でしか判断出来ず、見えない所で起こっていることに関しては一切考慮しないで物事

判断を下している。判っているようで解らないのが実情で、常彦が言うように「神の綱に操ら

れているのだから、今何を考へた所で仕方ありますまい」と言うことです。神に祈って刹那を大

切にして行くしかない。


                                                   以上阿良田記

 

次回

金沢教室 平成30年1月15日(月) 午前1時30分より 

高岡教室 平成30年1月18日(木) 午前7時より