教室レポート(161)        2018












大阪教室 1月10日(水)  


第28巻  第一五章 願望成就  第一六章 盲亀の浮木  第一七章 誠の告白

      第一八章 天下泰平

 シャーカルタン、トロレンス、セールス姫等は泰安城を陥れ、カールス王等を捕虜となし、牢獄

に繋いでしまった。さらに玉藻山の聖地に攻め寄せる。聖地のマリヤス姫等は大蛇の鏡で大軍を打

ち払う。続いて泰安城に進み、大蛇の鏡と赤、白の宝玉で帰順させてカールス王や真道彦を救い出

す。カールス王は真道彦に対して政教両面の主権を握るように言うが、真道彦は政治的野心なきこ

とを告白するのであった。


 最後に八幡書店版の王仁三郎聖師の肉声のCDを聞く。ノイズがだいぶ取れていて聞きやすく

なっている。

    次回 2月8日(木) PM7:00~

                                 桜井道彦記



金沢教室 1月15日(月)  


■金沢。富山共通

愛善世界誌平成30年1月号掲載の霊界物語第6巻第34章「三大教」を拝読。

ノアの洪水の時、野立彦尊、野立姫尊の大慈大悲の恩恵に救われた盤古神王も年月を経るにした

がい神世に飽き、色食の道に溺れた結果、再び世は乱れ体主霊従の世となって行きます。


前章33章「五大教」では、黄金山下に現れた埴安彦神の教示(五大教)を天下に宣伝するため

東彦天使がエデン河の辺で漂浪神の一団に説教しています。


そこへ白髪異様の宣伝使が現れ東彦に替わって説教を始めます。この宣伝使は霊鷲山麓の玉ノ井

の里に現れた三つ葉彦神の教理三大教を伝える北光天使です。


そして霊鷲山はインドとチベットの境にそそり立つ高山であり、黄金山は聖地ヱルサレムの傍に

聳え立つ橄欖山の別名です。ここに現されている霊鷲山は亀岡(万寿山)の近くにある高熊山

に比定され、また橄欖山は綾部の本宮山に比定されます。



  貴方の説示を聞いて感動したので五大教の教理の奥深い所をもっと詳しく教えてほしい」と言

う北光天使の問いに対し、東彦天使は


『自分は愚鈍の性質で、貴方らに教理を説くだけの力はなし。ただ自分より後れた信者に対し、

神の道を朧気ながら口伝へするのみ』と謙虚な態度を表はし、強く断り、そして『貴方はどんな

教理を宣伝しているのですか 聴かせて欲し』と言えば、北光天使は、


『これは不思議な貴方の御言葉ですな。そもそも神の道は神人の知識や物事をあれこれ考え合わ

せて判断して伝えるべきものではありません。神は宣伝使の口を藉りて甚深微妙《非常に奥が

深いこと》の教理をわかりやすく説き示されるのではありませんか』 と言っています。


北光天使は吾々が神の教えを伝えることはその教えを自分の知識を総動員して理解し、その結果

を伝えるのではなく、神を念じて話せば神が話し手に懸り、話し手(ここでは宣伝使)の口を

借りて自ずと伝えられるのだと言います。


北光天使が言う、神(主に天使)が人に懸かって伝えられるのは、霊界物語によれば憑霊は人の

想念と記憶中に入り込み、その人の記憶(知識も含む)を基礎として話すのです。従って、

の人に教理を理解出来るだけの能力がないと神も教えを伝えようがありません。従って、東彦

の言うことも北光の言うことも同じ事のように思えます。


しかし①自分の理解力や知識をもって(東彦)自分が話すと思うか ②神が人の口を借りて神が伝

える(北光)と考えるか、話し手(口伝者)の意識と心構えの違いではないでしょうか。北光

の天使の心構えであれば、天使が憑って思いがけない話が伝えられます。


最近盛んに「おもてなし」と言う言葉が流行りました。おもてなしや親切、ボランティアと言

う言葉は本来見返りを期待せぬ言葉ではないでしょうか。しかし、商業ベースに乗った「おもて

なし」は、してやったからとかしてやるからと、その見返りを期待して使われる言葉です。


愛善世界誌は「口を籍りて」のかりるが竹冠となっています。霊界物語(愛善世界社版)は藉で

草冠です。  竹冠の籍は「せき」で文章や書物という意味です。  草冠の藉は「しゃ」で、たよる、

かりる、かこつけるという意味です。誤植。



甲は、 東彦天使は「神様が現れ、この世の中の善悪を立替、善人を助け悪人を亡ぼす」と言い、

一方、北光天使は「ただ何事も人の世は、直日に見直せ聞直せ」と言うが、これは言わば諦め

ろということだ。これでは互いに矛盾し、一体何うすればよいのか詳しく説示をしてほしいと言

います。 また、若し神様がこの世に在らっしやるのならば、何故こんな不公平な事があるのに、

黙って見て居られるのか。私はこの世に神の存在を疑います。」と北光天使に問いかけます。


それに対して北光天使は以下のように答えます。

『神様は至善至美至仁至愛の御方である。故に悪を憎み、無慈悲を御嫌い遊ばすのは云うまでも

ない。しかし人間はいかに立派な賢い者でも、神様の御智慧に比べて見れば、実に耻かしいも

のであります。災多く、悪魔の蔓延る今日の世の中は、どうしても無限絶対力におはします神

様の力に依頼らねばならぬ。あなたが家を焼かれ、山林田畑を掠奪され、女房を取られて、

の怨みを晴らそうと思い、諸方を尋ね廻らるるのは人情としてもっともであり、吾々も満腔《

満身》の同情をよせますが、併し、そこを人間は忍耐して、敵を赦してやらねばならぬのです。

そこが人間の尊い所であって、神様の大御心に叶うというものです』


吾々の智慧(能力)は「神様の御智慧に比べて見れば、実に耻かしいものです」と言っている

ように、全智全能の神に比べれば実に小さなものです。従って神様は「ただ何事も人の世は、

直日に見直せ聞直せ、身の過ちは宣り直せ」といって、何事も吾が霊魂の本体である直日の御霊

の働きにより言動を常に省み、言霊の力を持って悪い言霊も良い方へ聞き直し言い直して善に

帰すことが大切だといっています。


神様は決していつまでも悪を蔓延らしては居られません、時期が来れば必ず良い方向へと向かい

ます。そのために大本の出現があるのです。


そしてまた、全てを全智全能の神に任せる心になりなさいと言われるのです。宇宙全ての物は神

の分魂で有り生き通しで、神から見れば善も悪も全てが必要なものであり可愛いのです。


霊界に居た魂が現界に修行に出てきて、神様のために働き死んで霊界に返り、これを繰り返

す霊魂の生涯を考えた時、現界でのほんの100年程の苦は地獄に落ちて何の報われもない、

長い長い苦しみからすればほんの一瞬でさして長い時間ではありません。人は心の持ちよう一つ

で、ましてや神にすがれば苦も楽に乗り越えられます。来世の有ることを知ればたとえ現世の

苦を修行と考え、一切を神に任せて苦を受け入れれば来世への楽しみとなります。



金沢教室

 第18巻第12章「大当違」、第13章「救の神」を拝読。

於与岐の里の豊彦のもとに黒姫の命令で寅若、富彦、菊若達は玉照姫を迎えて帰ろうとするが、

すっかり腹の底を見破られてしまう。仕方がないので忌み明けで弥仙山に参拝するお玉の方を、

梅公のように芝居を打って奪おうとする。お玉は三人に後ろ手に縛られ、猿ぐつわをはめられ

たところへ、丹州が登ってきてお玉を助ける。


そのたの内容は2016年の教室レポート(137) 1月の金沢、高岡合同勉強会を参照されたい。

                                              以上阿良田記


高岡教室 1月18日(木)  


第20巻第11章「鬼婆」を拝読。

 夜が明け、鳥の声に送られて宗彦、田吾作、原彦は進んでゆくと、茅ぶき屋根の三四十軒あま

り建ち、二百人程の老若男女が一つの部落をつくっている。みな唖ばかりで、これは鬼婆(蜈

蚣姫)の計略によって篏口令を布くため、毒茶を呑まされた人達であった。


そこへ、美しい一人の女が現われ、宗彦に会釈して北の谷間をめざし走っていった。この女は

玉照姫の生母お玉の方で、鬼婆の手下の者に誘拐され、この山奥に連れ込まれていたのである。

お玉の手招きによって岩窟の中に進んで行くと、ここは鬼ケ城山に割拠していた鬼熊別の妻蜈蚣

姫の日本列島における第二の作戦地であった。


三人は蜈蚣姫と談判中、宗彦が天津祝詞を奏上しはじめると婆は驚いてこれをとめた。勧めら

れるまま土瓶の茶をのみパンを食うと、体も動かず言語を発することが出来なくなった。婆が

三人を虐待するところへ、留公は声もすずしく宣伝歌をうたってこの場に現れると、婆は霊縛

されて動けなくなった。このとき奥の方より、お玉の方が宣伝歌をうたいながら現われると、

三人は不思議にも身体が自由となり耳も聞こえ、口も縦横無碍に動き出した。


ここで田子作は「何とマア神様の御経綸は分からぬものですなア」と言っている。この先で蜈蚣

姫は改心するのであるが、そのための神の御経綸である。蜈蚣姫には桶伏山に隠されていたお

宝(黄金の玉)を事前に盗ませ、それを追って行ったお玉は蜈蚣姫に捕らえられる。また留

公は真浦に事前に教えられて別行動を取っており、必要な人物が必要なところに集まってきてい

る。


                                     以上阿良田記


 

次回2月12日(月) 金沢教室 午後1時30分より

  2月15日(木) 高岡教室 午後7時より