教室レポート(158) 2017
富山、金沢共通
愛善世界誌平成29年10月号に掲載された霊界物語第36巻第13章「恵の花」を拝読
この13章は9月に勉強した22章の前段です。第12章の「無住居士」がテーリスに語ったことを
要約しておこう。
無住居士(天の真一つの神)はテールスに対し、始め三五教に信従していながら時の天下に従
ってサガレン王の臣下となったことを責めます。テールスは『決して心の底より三五教を捨
てては居りませぬ。何れの神の道も元は一株だから吾々の行動に付いては神さまに対し、少
しも矛盾はないと心得ますが……』といえば
無住は『何れの道に入るも誠の道に変りはない。其事は別に咎めもありますまい。さりなが
らそこまで真心を尽して王の為に努めようとするなら、至上至尊の神さまの為に、なぜ真心を
尽さないのか。神第一という教の真諦を忘れたのか。左様な心掛では何ほど千慮万苦をなす
ともとうてい駄目だ。神の御力にすがり奉りて、サガレン王を助けようとする心になら、彼
の竜雲のような曲者は、物の数でもあるまい。誠の神力さえ備はれば、竜雲如きは日向に氷を
さらしたように、自然の力によって自滅するは当然の帰結である』と言い、そして武術によ
って敵を成敗するのでなく、『無限絶対の神の力に依って、お前の霊魂の上に真の神力備はれ
ば、一人の霊を以て一国の霊に対し又は億兆無数の霊に対しても恐れる事はないはず、又霊
力さへ完全に備はれば、お前一人の力によって億兆無数の力に対し、又お前一人の体によっ
て億兆無数の体に対抗し、その目的を貫徹する事が出来るであらう』と主一無敵の信仰を諭
します。人の肉体は精神(霊魂)によって支配されています。人は神にすがり、神心になれ
ば何も畏れるものはなく、自ずと神力により解決するものです。
更にテーリスがどうすれば竜雲に勝てるかと問えば
『別に竜雲のような悪魔を言向和すに就いて、議論もヘチマもあつたものでない。ただお前の
心にひそむ執着心と驕慢心と自負心を脱却し、ただ惟神の正道に立返えればそれで十分だ。
一つの計画も何も要ったものでない。アハヽヽヽ』といいます。「惟神の正道」とは、吾こ
そはという驕慢心や自負心を捨て、生まれ赤児のように一切を神にまかす心です。
『幼年の頃より無抵抗主義の三五教の道を聞きながら、神の大御心を忘却し、暴に対するに暴
をもつてし、悪魔の憑依せる竜雲を討伐せむとしたる吾心の愚さよ、否無残さや。兵は所謂
凶器である。先頃も一挙にして彼竜雲を討伐せむとし、数多の部下に武装を凝らさせ、神地
城の表門より闖入《突然、無断で入り込むこと》し、敵を打ち悩まさむとして却て味方を傷
つけ殺したる事、返す返すも迂愚《愚かなこと》の骨頂《極み》、拙《つたない》の拙なる
もの、悔いても及ばぬ殺生をしたものだ。』と無住居士の言葉に我に返ったテールスは一人心
に思います。
「兵はいわゆる凶器である」とある。「暴に対するに暴をもつて」すれば一時は解決したよう
に見えるが、最終的には恨みを買う。何れの国も過去には互いに戦争により相手を恨んだり、
恨まれたりする状況を作ってきました。フランスとドイツは長い歴史の中で幾たびも戦ってい
ます。しかしその恨みを乗り越え、いまは仲間としてEUと言う枠組みのなかにいます。
中国や韓国も過去には国の内外で戦争を起こし、敵を倒し、倒されした経験があってもその古
い悲惨な戦争を忘れ、今は先の戦争だけに目を向け、未だに日本は許しがたい敵であると政
府は煽り立てます。
小さな争いや戦争は自分や自国を正義と思わなければ戦えません。しかし神の子である人を殺
すことはいかなる理由があろうとも正義ではないし、どんなに小さな争いも天則違反となりま
す。そして正義と思う心は執着心や驕慢心、自負心から来るもので、先の事の全く判らぬ人
間の愚かな驕りです。この世のことは一切神のなせる業である事を忘れてはなりません。
チールは、『仰せの如く個人としての敵は、心の持ちやう一つに依つて自然と消滅するでせう。
・・・・サガレン王に向って反逆を企てたる大悪人竜雲なるものは《大義》、・・・どうし
て是を看過する事が出来ませうか』と問えば
テーリスは『成る程汝の云う如く、竜雲は実に悪逆無道の曲者にして、主君の為には大の仇敵
だ。臣下の分際として之を看過するはいわゆる臣の道に背くものである。とは云へ、如何に
竜雲暴悪非道なりとは雖も、此方より大慈大悲の至誠をもって彼に当らんか、必ずやその仁
慈の鞭に打たれて、心の底より王に服いまつり、今迄の罪を謝し忠実なる臣下となりて仕うる
は決して難事ではない。吾々にして彼竜雲如き悪人を言向け和し、悔悟せしむる事を得ずと
すれば、これ全く誠の足らざるものである。如何なる悪魔といへども、大慈大悲の大神の御
心を奉戴し、至誠至実を旨とし打ち向ふ時は、必ずや喜び勇んで、感謝とともに従ひまつるは、
火を睹るよりも明かならむ。先づ先づ武術を思い止まり、一刻も早く魂を磨けよ』と答えま
す。
22日には国政選挙があり、安保法制や憲法改正を是とする自民党や希望の党があります。北
朝鮮の脅威に脅え、日本も武力の強化と戦争の出来る憲法を持とうとしています。制裁や武
力による力の政治は、せっかく神様が与えてくれた世界に誇る平和憲法を捨てようとしてい
ます。外交という対話の機会がありながらそれを使おうとしません。物語にあるように、
慈悲と真心を持って対処すれば必ずや神のご加護が有り、どんな悪人も改心するものです。暴
に対して暴をもつて対しては決して解決しません。力と力ではなく、エームスのように「愛
と誠とを第一の武器として戦わん」です。
そしてどんな場合も我々に出来ることは「霊魂磨き」しかありません。
孫子の兵法の最大の点は戦わずして敵を征服することです
孫子の有名な言葉に、「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは
善の善なる者なり」(諜功編〈第3〉)というのがあります。これが有名な「戦わずして勝つ」
の原文です。
これは戦争や競争での話で、信仰の場合は何れも共に生きることで、勝ち負けではなく、同
等の仲間(神の子)として対処することです。北朝鮮との関係もアメリカの力を借りて戦う(
核の傘に隠れて相手を脅す)のでなく、北朝鮮と関係のある国を巻き込んで、神の下に仲間
として対処することです。全てが平等であることが大切なのです。
金沢教室
霊界物語第18巻第5章「赤鳥居」、第6章「真か偽か」 を拝読。
5章「赤鳥居」は紫姫一行は大江山方面に向かって進む途中で女の悲鳴を聞き若彦、馬公、鹿
公の三人の男は声する方に向かいます。そこにはウラナイ教の黒姫の手下で滝公、板公の二人
が一人の女に猿ぐつわをかませ木の根元に隠しています。そこで、鹿公は暗やみなのを幸い、
黒姫の声色を使って二人に女の所に案内させます。そして、お化けになって二人を追い払います。
助けられた女は若彦の女房お節でした。
紫姫は三五教に救はれてから鹿公、馬公との関係を、従来の極端な主従関係を止め平等な付き合
いをしたいと言います。そこで鹿公は私的な関係では平等でも、信仰の上ではあくまでも師弟
の関係を維持して行きたいと言っています。章題の赤鳥居はどんな意味を持っているのでしょう
か?
第6章「真か偽か」では、三男二女の一行は元伊勢のお宮につきます。紫姫は半日許りお宮の
中で御神勅を承はらねばならないので、産釜、産盥の河原の谷水に御禊をし、神言を奏上して
待つようにと云います。下に降って行くと一人の女(黒姫)が二人の従者を従えて、産釜、産
盥で水垢離を取り、皺枯れた声を絞ってウラナイ教の宣伝歌を唱えています。三五教の信者と
聞くと三五教をこき下ろしますがどうしたわけか、紫姫一行は黒姫について魔窟ケ原の隠家さし
て進んで行きます。
以上阿良田記
第28巻 第二章 無理槍 第三章 玉藻山 第四章 淡渓の流 第五章 難有迷惑
第六章 麻の紊れ
真道彦命は国治立大神の時代より台湾島に鎮まり、子孫皆真道彦の名を継いで新高山の北方に
聖場を定め、三五の道を全島に拡充していたが、バラモン教の一派この島に漂着してより、花森
彦の子孫なるアークス王は三五教の教えを捨ててバラモン教に帰順した為、新高山以北はバラモ
ン教に帰順してしまった。
サールボースは自分の娘セールス姫をアークス王亡き後、長子のカールス王の妃となし政権を
握り、真道彦の教化しつつありし玉藻山の聖地に攻めよせて行く。真道彦の子の日楯・月鉾は再
び聖地を取り戻し、広大なる神殿を造営していく。
新高山以北の地は魔神の子孫蕃殖し邪悪行われ行われ、天災地妖しきりにおこり、住民は塗炭
の苦しみに陥る。
最後に恒例の宣伝歌の披露。今日は尾崎紀世彦の「また逢う日まで」の曲で「神が表に現れて
・・・」の宣伝歌。なかなか合っていた。
次回 11月9日(木) PM7:00~
桜井道彦記
霊界物語第20巻第7章「再生の歓」、第8章「心の鬼」を拝読。
第7章「再生の歓」で、お勝は自分にある黒子が松鷹彦の言う娘の梅と一緒なので、松鷹
彦の子と解かり夫の宗彦に離縁してくれるよう迫ります。突然のことで意味のわからぬ宗彦は
理由を尋ねますがお勝は言いません。そして行き成り自殺しようとします。二人がもめてい
る所へ松鷹彦や真浦、田子作、留公達が来ます。
松鷹彦が真浦の脇の下の梅花の痣を確認し我が子と判明します。嬉しいはずの親子兄弟がなん
となく沈みがちなので、田子作は酒の力を借り宣伝歌を歌って、お勝の秘密を明し親子兄妹
がはっきりします。
第8章「心の鬼」では宗彦は親兄弟と一旦別れ聖地で修行を終え宣伝使となる。三国ケ岳
に割拠する魔神の征服を言依別命より命ぜられて、いったん宇都山郷に帰り報告祭を行い三国
ケ岳へと向う。
田子作と留公は一緒に連れて行ってくれるように頼むが、宣伝使は一人旅と言って許しません。
仕方なく後ろからついて行きます。
宗彦は峠の頂で一服していると、やつれ果てた四十位のお露という女が、見すぼらしき風姿(
みなり)で霧の中から浮いた様に現はれて来ます。女を呼び止め事情を聞くと、夫の原彦が
ここ2,3年大病にかかっているので滝の神様に祈願に行くのだと言います。宗彦は都合に依
つたら神様に願って助けて上げようと言って、女の家までついて行きます。
病人が囈言を云うのを聞くと、男は10年程前に泥棒をして人を殺したらしく、その殺された男
の死霊が祟つて居る事が解ります。病人のうわ言からどうも田子作を殺したと思い詰めて苦し
んでいるようです。
原彦は死人の祟りだと思っているが本当は自分が犯した事への、心の罪に苦しんでいることが
判明します。
死霊による祟りは滅多になく、ほとんどが生き霊か自己の罪の呵責によるもので、「原彦
夫婦を初め村人一同は執着心より恐るべき罪の発生し、其罪は忽ち邪気となつて我身を責むる
と云う真理を心の底より悟り、熊田の小村は挙って宗彦の教を信じ、遂に三五教の信者とな
って仕舞った」のである。
以上阿良田記
次回
富山教室 11月16日(木) 午後7時 第20巻
金沢教室 11月21日(火) 午後1時30分より 第18巻
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