教室レポート(157)        2017












高岡教室 9月21日(木)  


富山、金沢共通

愛善世界誌平成29年9月号に掲載された霊界物語第36巻第22章「春の雪」を拝読

 

この話の中心人物サガレン王(国別彦)はバラモン教を創設した大自在天大国彦の孫で、父は

大国別である。鬼雲彦によって追い出されセイロン島(神地城)の王となっている。


 竜雲は八月の勉強会で出てきた人物で、前世は盤古大神塩長彦の一類であった関係から、

世もウラル教の妖僧となってサガレン王を苦しめたのである。



 

1、城の馬場に集まった人々は天の真一つの神の導きの下に、国治立大神、塩長彦大神、大国

彦大神を同時に祭って天津祝詞を奏上している。


国治立大神《三五教》、塩長彦大神《ウラル教》、大国彦大神《バラモン教》はそれぞれの教え

の主宰神である。物語の中では三五教の宣伝使は問題の解決後に宇宙の主神を祀ると同時に、


これまで信仰してきた神をも同時に祀る。それはウラル教やバラモン教の神も主神の分霊であり

これまで人々が拝んできた神であるからであろう。


大本では仏教などから改宗した場合、仏壇を廃棄することを勧めはしないで改宗者の心に任せる。


 

2、 「神地の城は火の洗礼によって、地上に一物も止めず烏有に帰した」とある。本来洗礼に

は火(霊)の洗礼と水(体)の洗礼があるが、ここでの火の洗礼は霊的洗礼ではなく、もじ

どおり体的火災によって一切のものが焼失したのである。


「人の性は善なりとはまさにそうである」とあるように人は主神の分霊なので本来善である。

万物に備わった一霊四魂の中の一霊が持つ「省みる」の働きにより、必ず悔い改める力を備え

ており良心に立ち返ることが出来るのである。


萎微は広辞苑には出て来ないが「萎靡(なえしおれること。衰えて弱ること)」と同じ意味であ

ろう。



 

3、 「これを思へば、総ての人は憑霊のいかんによつてその身魂を向上させ、あるいは向下さ

せ、善悪正邪、種々雑多の行動を知らず知らずに行うものであることを悟られるのである」と

ある。神諭の、『善の神が守護致せば善の行いのみをなし、悪の霊がその肉体を守護すれば悪

の行いをなすものだ』は、なるほどと言える。しかしこの言葉も憑霊なるものがなにかを理解

できないと、実際の現象におけるこの言葉の真の意味は理解できない。


前にも書いたが人の性は善である。正守護神が本来の姿で、そこに正または邪神(副守護神)

が憑依して様々な行動を取らせるのである。正守護神が憑依してくる副守護神をよく統御できれ

ば、天国へ昇る霊となって本守護神と呼ばれる。反対に副守護神に使役されれば共々地獄へと

落ちて行くことになる


 「人間の貧弱な眼力では到底人の善悪正邪は判別できない。人を裁く行為は決して人の力では

出来るものではない、その権力を生まれながらに持っているのは、ただ神様だけである」


物事の善し悪しの判断を下せるのはただ神様だけで、我々が下せば「神の権限を侵すもの」と示

されている。どんな事象にも必ず善悪は多少なりとも含まれており、絶対の善も、絶対の悪も

ない。そのことからも我々には善だ悪だと決めつけることは出来ない。


我々はよく人の批評や物事の正邪を裁くがその権利はない。若い頃会社で人の噂話をして、良い

の悪いのといっていると「知らん者と、判らん者がなにを言うとるか」と先輩に叱られたもの

である。物事の裏も表も知り、長い経過と将来の結果を知らなければ批評できるのでない。

面だけを見て下す判断はナンセンスである。

まして悪は善の仮面を被って登場するので我々は簡単に騙されてしまう。もしなにか事に当たっ

て判断に迷ったなら、必ず神様のお力を得られるよう祈らなければならない。


 

4、 人は悪霊に支配されている間は、時として実に立派に振る舞っているように見える。

はいえ悪は長続きしないので何処かで馬脚をあらわす。そうなると大変惨めで、悪霊の抜けた

竜雲のようにまったく別人のように非力でみすぼらしくなる。そして改心して徳を積めばそれ

に相応しい姿となるのである。

 

 

高岡教室 

 

霊界物語第20巻第6章「梅花の痣」を拝読。

松鷹彦は「素盞嗚尊様が高天原を神退ひに退はれて遠い国へ御出ましになつた其時に、世の中は

一旦は常暗の夜になつた事がある。其の時だつた、悪魔が横行して男二人、女一人の三人の子

供を何者にか攫(さら)はれて了ひ」と言っており、三人の子供が有ったことが判る。ここで言

う「常暗」は気象的に太陽が出ずに暗くなったことではなく、地上世界は素盞嗚尊という統治

者を失い、人の心が乱れ悪魔横行の世となった事を意味し、素盞嗚尊が高天原を追われてそう

遠くない時代であることがわかります。


松鷹彦の三人の子供にはそれぞれに身体的に特徴があり、兄の松は左の脇下に梅の痣が、中の

男子竹には右の脇下に梅の花の痣があり少し欠けていること。下の妹梅にはへその下に三角形の

黒子(ほくろ)があることを明かします。それを聞いた宗彦は自分にも右の脇下に梅の痣があ

ると話、親子の対面をします。更に田子作は松鷹彦が言う梅の痣が真浦にもあることを明かし

ます


松鷹彦はお勝に対して自分の子の様な気がすると尋ねますが、お勝は黒子など無いと否定します。


金沢教室 9月25日(月)  


 

 

 

霊界物語第18巻第3章「神命」、第4章「四尾山」 を拝読。

玉照姫様を取り上げた悦子姫一行は直ちに弥仙山へ参拝すべく出発し中腹で日が暮れ、寝につき

ます。

 

相変わらず加米彦の駄洒落が炸裂していまが、口の割には気弱で、深山の夜は怪声が鳴り止まず。

猿の声、大蛇隊の声、狼や熊の声、天狗の悪戯など気にしたら寝られなくなり夜を明かします。

頂上に着いた悦子姫は「徐々(しずしず)と神前に進み、何事か頻りに暗祈黙祷しつつありき。」

悦子姫は重大な神勅を受け即座に下向しますが、音彦、夏彦は天津祝詞、神言を奏上し悠々と下山

し、五合目あたりで悦子姫一行に追いつきます。


弥仙山は綾部から北東の方角に見え、弥仙山の頂上からは舞鶴(田辺)の海が見えます。

                                             以上阿良田記

次回 金沢教室 10月10日(火) 午後1時30分より 18巻

次回 富山教室 10月19日(木) 午後7時  第20巻