教室レポート(156)        2017












金沢教室 8月14日(月)  

  

金沢、高岡教室共通

愛善世界誌8月号掲載の霊界物語第41巻第14章「慈訓」を拝読

◇ここまでの粗筋

 印度の入那国には刹帝利セーラン王が君臨し、左守にクーリンス、右守にカールチンが仕えていた。

右守は大黒主に通じておりセーラン王についてざん言をつづけ、その援助によって自分がセーラン王

にとって替わろうと画策をめぐらしていた。  カールチンは、セーラン王の許嫁ヤスダラ姫を無理矢

理、植民地のテルマン国の富豪シャールの妻とし、自分の娘サマリー姫を王妃とした。セーラン王

は強要されたサマリー姫との仲が思わしくなく、サマリー姫は怒って右守館ににげ帰る。カールチン

は時こそよしと、大黒主に重ねてざん言し派兵を待ってクーデターを行ない、自ら王になろうとした。

  苦境に立ったセーラン王が、ひたすら神に祈ると、夢に北光彦神が現われ「鬼熊別の妻子である黄

金姫、清照姫がやがてこの入那国を通過するから、この二人を迎えて、国難を救われろように依頼す

べし」とのことであった。  黄金姫、清照姫は狼の群に迎えられて、高照山の狼の岩窟に着くと、

そこに北光彦神と妻の竹野姫が狼の王として住居しているのに驚く北光彦神は入那国を救うために

狼をつかって二人を招き寄せたのである。


そして照山峠でシャールの館から逃げ帰るヤスダラ姫と竜雲に出会うから、高照山にかくまうよしを伝

えることと、入那城に行きセーラン王をただちに狼の岩窟に送るように命ぜられる。


この章は高照山の狼の岩窟に着たヤスダラ姫と竜雲が北光彦神と竹野姫夫婦に面会し話し合う場面であ

る。


◇竜雲について

 聖地ヱルサレムの天使言霊別の長子なる竜山別といふ腹黒き神人は、始終野心を包蔵してをつた。

それゆゑ今回のヱルサレムにおける変乱にも、自己一派のみは巧みに免れ、邪神常世彦の帷幕に参じて

ゐた。彼は今また、このアーメニヤにきたり、神々とともにウラル山の中腹に登つて断食断水の仲間

に加はつてゐた。【第5巻 第13章「神憑の段」】


 印度に生まれた妖僧竜雲(竜山別の後身)はウラル教をセイロン島に宣伝しついには王妃ケーリス姫

の寵を得てこれを篭絡した。これに怒ったサガレン王を発狂者として幽閉し、忠臣を投獄した。

雲は国王気取りで悪逆日に増長し怨嗟の声は国内に満た。天の目一つの神は、神地城に現われて竜雲

とケールス姫にこのまま行けば天罰はたちどころに現れると諭し去る。神地城に現れた君子姫はサガ

レン王に協力し、竜雲、ケーリス姫等に憑依した曲津神を打ち払い本然の心に立ち返らせる


ケールス姫は悔い改めて、天の目一つの神に許されて宣伝使となりインド各地を巡教し、竜雲はイン

ドに帰り各地の情勢を探りついに三五教の宣伝使となる【第36巻】。今またここでヤスダラ姫を保護し

北光彦神と再会す


 

用語解説

*貪瞋痴:仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩(心の三毒で人は最も

      慎まなければならない)


 貪:貪欲ともいう。むさぼり(必要以上に)求める心。一般的な用語では「欲」・「ものおしみ」 豚

 瞋:瞋恚ともいう。怒りの心。「いかり」・「にくい」と表現する。蛇

 痴:愚癡ともいう。真理に対する無知の心。「おろか」と表現する。鶏

*光芒陸離: 光芒は「尾を引くように見える光のすじ。ひとすじの光」。  陸離は「美しく光りきら

       めくさま」

 

◇気になる言葉

◆ 竜雲は「一時勢に乗じ、サガレン王の後を襲うて権利を揮うた時の苦しさに比ぶれば、今日の

気楽さ楽しさは、天地の相違で御座ります。」 これは王位を狙って悪を働き、他を排除しようとす

る時の竜雲は常に周囲に気を配り欲望のために気を苛痴、自分に反対する者に怒りをぶつけ、叶わ

ぬ事への愚痴を言っていたことでしょう。翻って考えると現在の安倍首相がそうではないでしょうか

今までのように自分のわが儘が通らなくなってくると(此竜雲さまだつて始めは随分虫のよい考

へを起し得意の時代もあつたが、忽ち夢は覚めて千仭の谷間へ身を落した様に P16)、ますますこの

貪瞋痴が頭をもたげてきます。



 

◆ 「身魂の合はぬ夫を持たされ、さぞ日々不愉快をお感じになつたでせう。」   この身魂の合は

ぬ夫婦というものがある。人は霊的に合う人とそうで無い人があり、この二人が肉体上の夫婦関

係にある場合は夫婦関係が上手く行かない。もう一つは信仰を異にする場合でしょう。



 

◆ さうして自分の身を守りながら神様の貴の御子たる天下の万民に誠の道を教へ諭して、天国に

救ひ、霊肉ともに安心立命を与へるのが神より選まれたる貴女等の任務だから、いかなる艱難

辛苦に遭ふとも決して落胆したり怨んだりしてはなりませぬ。何事もこの世の中は人間の自由に

は木の葉一枚だつてなるものではない。みんな神の御心のまにまに操縦されているのだから、

かなる事が出て来ようとも惟神に任し、人間は人間としての最善の努力を捧ぐれば宜いのです。

この傍線部分に早く気づくことが肝心なので、生まれ赤児の心です一切を神にまかす心境になりた

いものです。



 

◆ 一つでも多く叩かれた剣は切れ味もよく匂も美はしき様なもの。人も同じ、神から一つでも多

く試練を与えられれば その人の持つ雰囲気(匂い)までが違ってきます。



 

◆ 生者必滅会者定離《生ある者は必ず死に、出会った者は必ず別れるのがこの世の定めであると

いう仏教の教え。》、別離の苦しみは人間はおろか、万物に至るまで免れ難き所です。



 

 

金沢教室


今月から第18巻に入る。序、凡例、総説、第1章「春野の旅」、第2章「厳の花」を拝読。

凡例に、霊界物語の発表以前には大本教義を誤謬(現象に関わるまちがい。詭弁や虚偽)と錯誤

{内心と表示行為との間の不一致(動機や認識のまちがい)}によって間違って認識していた人

がいたとある。多くの人はこれまでの一般的解釈や教義を自分の都合のいいように解釈していた

が、霊界物語の発表によりその解釈の間違に気づかされたとある。


昔だけでなく今も教義は大変難しい(過重である)。そういう意味では今までの知識を捨て生ま

れ赤児のように、物語に素直に対すればよいのであるが、残念ながら霊性の高い優れた魂の持ち

主であれば良いが、私のような霊性の低い人間は受け取れる範囲が狭くなる。ない智慧を絞って

でも理解しようとせねばならない。

第1章の宣伝歌(24ページ)、播磨の俳人滝野瓢水の歌を本歌とする「床に置くなやはり野でみよ

紫雲英」は、野に咲く花(紫雲英)は摘んできて床に飾って見るものでなく、自然な状態で見る

のがよいと言う歌である。霊界物語も余計な解釈をせず素直に読めと言われている。確かに物語

の中にそうした箇所もあるが72巻を通して言えば多くの箇所で「心読」し研究せよと書かれている。

そして、智慧の浅い私でも何度も読み返し、その意味を理解しようと努力すれば何らかの気づき

を頂ける。「物語の中の疑問は物語の中に解答がある」が私の持論である。意識を持って読み進

めれば必ず回答は頂けるのである。


聖師が神霊界で言われた「教義的分子を含みた著作」はだめだといわれているのは、上記のよ

う物語を離れた勝手な解釈による著作はだまめだということで、霊界物語を素直に受け取り、

く勉強した教義の解釈は許されるであろう。

そしてこの「素直」の意味は、なにか発見してやろうというような小賢しい態度で無理な解釈(

奇をてらったような)をしようとするなと言うことでもあろうか。


物語は大変難しく表面だけを見ていたのでは真の意味はつかめない。聖師は物語の解釈は様々に

あり12通りとも24通りとも言っておられる(人によって違うのが不思議だが)。将来は学者がこ

れについて研究するとも書かれている事と矛盾する。素直に考え、受け取った時の気付きはその

12通りの一つかもしれない。



高岡教室 8月20日(木)  


 

 霊界物語第20巻第5章「親不知」を拝読。

全体を通して12章しかなく、この5章は二番目に長い章で31ページに及ぶ。なかなか面白くクスクス

と笑いがこみ上げてくる。落語を聞いているようでいろいろな逸話の断片がちりばめられている。

始めの宣伝歌には仏教用語が出てくるのでその意味がわからないと、読んでいてもつまらないもの

になる。


水門壷は水琴窟(手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられ

る音を反響させる仕掛け)のことか。


釣りをしている松鷹彦の所に宗彦、お勝夫婦の巡礼が通りかかり、宗彦とお勝の関係がおかしくな

り、思わぬ展開になりそうである。例によって章題「親不知」の意味が次の章でわかりそうだ。

                                    以上阿良田

 

次回   金沢 9月18日(月)午後1時30分より 第18巻

     富山 9月21日(木)午後7時  第20巻