教室レポート(155)        2017












富山・金沢教室 7月18日(月)  

  

今月は出口孝樹先生をお迎えし富山、金沢教室合同の勉強会を行いました。

始めに6月11に執行された素尊山世界平和祈願祭(神奈備山の一つである地図上の大船山祭典と大本地恩郷

別院、言霊剣について)のお話を聞されました。


第20巻 第2章「赤児の誤」、第3章「山河不尽」第4章「六六六」を勉強。

ここに出てくる宇都山郷は亀岡から綾部の方に少し向かう山深いところで、聖師様が綾部に来られた青年

時代にこのあたりを歩いて宣教に回られたようです。また、真浦は聖師様の妹の夫である西田元教さんが

モデルと言われています。そして真浦は第二巻に出てくる言霊別命の弟である元照彦の後身です。



 

2章「赤児の誤」

ここに出てくる3度芋はジャガイモのことで2度芋とも言い、全国的にはいろんな呼び方があります。本州

では年に2度採れ、北海道でもとれるので3度芋と言うようです。北陸では3月から4月にかけて種芋を植

え、暖かくなって芽が出てきます。宇都山の郷に来た真浦が冬を越し、春になった頃の話なのでここでの赤

児は人間の赤児で無く、漸く出て来たジャガイモの芽を留公達4人は踏みにじって行ったのでしょう。


松鷹彦は『此の村は質朴な代りに理解力が無いので困る。信仰も結構だが無理解な信仰にああ堅くなっては

、何うにもこうにも手の付け方が無い。』といい、さらに小竹婆さんは『随分いろいろの神様の教もあり、

宣伝使も沢山ありますが、どれもこれも言葉の花の山吹ばっかりで、実の【のつた】例は無い。』と言って

います。


信仰は頑(かたく)なではいけないので深く理解し縦横でなければいけないのでしょうし、宣伝使は美しい

花のように美辞麗句を並べるも、教えや心に実がなくてはいけないと言っている。


山吹にちなんだ話として聖師様が書かれたと思われる、大正6年か7年の神霊界に載った「山吹の花」のお話

をされました。物語では御口述された時代(大正11年頃)の時事問題を反映して書かれています。



 

第3章の章題、山河不尽の「さんが」はマーガレット・サンガー氏(アメリカ人)で「ふじん」は夫人です。

〔アメリカ合衆国の産児制限(受胎調節)活動家〕大正11年3月に改造社の招致で来日しているが、このサン

ガー夫人の思想は国策に反するとして当時の内務省から一般への講演が禁止されている。留公はこの間の事

情を『ハイ、物価騰貴の今日、こう沢山に赤子が殖えては、第一国民が食糧に困ります。三度芋と云って年

に三度も子を生む奴じや、産児制限の為めにサンガー夫人がやって来て、今此処に大活動を開始した所です

よ。何卒大目に見て上陸を拒否しない様に願ひます、アハヽヽヽ』と言っています


留公の理不尽な言いぐさに男は怒り、留公の頭目がけて鍬を打ち下ろすと、体を交わされた鍬は真浦の足の

小指を斬り落とします。驚いた真浦はすぐに小指を拾って足に付けますが、慌てていたため裏表を逆に付け

たため名前が真浦(真裏)となったと書かれています。聖師様は指や耳などが切り落とされた直後に拾って

付けると直ぐくっつくと仰っていますが、これは事実で、日本人のように草食人間では付くが、西洋人のよ

うに肉食人種では組成が違うのでだめだそうです。


男は丹精込めて作った芋種を台なしにしていながら、他人事のように言う留公に更に腹を立て、鍬を振りか

ざして迫る男(田子作)を真浦はなだめます。


男『朝から晩まで自分の産んだ子も同然に肥料を掛けたり、草を引いたり、色々と世話をして来た可愛い芋

の子、それをムザムザ踏み潰されて……育ての親が如何して黙って居れましょう。芋は芋だけの精霊が宿っ

て居る。きっと苦しんで居るでしょう。可哀相に……此赤子は誰に此無念を訴へる事が出来ましょう、私が

怒ってやらねば此赤子は能よう浮びますまい・・・』と言えば


留公『それ程可愛い芋なら大きうなった奴を何故釜煎にしたり庖丁にかけて喰うのだ。・・・ちっと理屈が

合ぬぢゃありませんか』と切り返します。


田吾作『何だか可憐相で仕方が無いわい、・・・・芋は芋としての寿命がある筈だ。秋が来て蔓が枯れた時

は寿命の尽きた時だ、そこで喰うのなら芋も得心するであろう、折角お前も生れて来て不運な奴だのう』と

寿命を全うしたのならよいが早死にでは可哀想だと言えば、留公は『貴様は人の命が大切か、芋の子が大切

か、どっちを主とするのだ』と人と芋とどっちが大切かとやゆしますが。田吾作は『きまった事よ、貴様は

芋でたとえたら良い喰い頃だ。此世に最早用の無い代物だ』と馬鹿にします。


そこで真浦は『随分面白い芋論を聞かして貰いました、しかしながら万物一切皆神様の霊が宿っているのだ

から、貴賤老幼草木器具の区別なくそれ相当の霊魂がある。万有一切は総て神様の大切なる御霊が宿ってる

から、木の葉一枚だって粗末にしてはなりませんぞや』


ここに人の貴賤、老幼のく別なく、また動物や植物、石ころや茶碗から箸などの器具(無機質)にいたるま

で全てに神様の霊(分霊)が宿っており、葉っぱ一枚もそまつに出来ないのです。


これを聞いた留公は翻然と覚ります

                                                       以上阿良田記

 

次回   金沢教室 8月14日(月) 午後1時30分 第18巻

       富山教室 8月24日(木) 午後7時より  第20巻