教室レポート(153) 2017
金沢。富山共通
愛善世界5月号掲載の霊界物語第3巻第18章「神霊の遷座」を拝読。
『霊鷲山は磐樟彦の修業の霊場で、天神地祇の中でも最も先見の明がある神々の潜んで時を待たれる神仙境
なので、なおざりにしてはいけないと、磐樟彦は諸神司と議り霊窟のほとりに大宮柱太敷く造営し、神人らの
修業所として鄭重に設備をほどこし、三ツ巴の神紋は、社殿の棟に燦然として朝日に輝き、夕日に照り映えじ
つに壮観をきわめた。』と冒頭の文章にある霊鷲山は現界では高熊山にあたる。 神人らの修業所として霊窟の
ほとりに神殿を造営した。
三ツ巴の神紋は小幡神社や素盞嗚尊がそうです
主題は
修行からかえった磐樟彦はここに神殿を造営した。神霊鎮祭の遷座祭の準備をする神饌所での会話です。
『穢れた物を神前に供えるのはどうしたわけだ。神は清浄を喜び汚穢を嫌われる。それなのにこの様な禽獣や
魚類の肉を供え、机上はもちろん神殿を汚し神の御心を怒らせ、さらに博く万物を愛せよと決められた、天地
の律法を侵害し生物を殺して神饌に供えるのは、何たる心得違いだ。神は律法を定めて殺生を固く禁られた。
神威を冒頭《冒涜?》する罪は軽くない。すぐにこの神饌を撤回し清浄無穢の神饌に改めなさい』
勿論神に供える神饌物は清浄でなければならないが、ここで供えられた物は獣(猪)、鳥類(鴨、山鳥)魚類
(海と川の魚)の肉で、お供えするのは神に対する不敬であると旗照彦達は主張する。そして殺すなかれとい
う天地の律法にも反するという。
そこで、清川彦達は「せっかく選りに選り、清めた上にも清め、苦労して集めた山野河海の神饌で」、しかも
祓戸行事を行って清めた物を汚いというのであれば、祓戸行事に何の意味があるのか、たんなる形式で終わっ
てしまう。つねに霊主体従の法則に基づいて誠をこめて奉仕しているので、体主霊従の道理に反する事を行う
ために祓戸行事を形式的に行っているわけではないという。
旗照彦はまた反論して、神の愛より作り出された生物を殺し、天地の律法を破壊する大罪を犯しているので、
それを改めないのなら我々は祭典に列席しないとまで言い出す。そこで祭主の神世彦は大神の神慮を伺うと、
「『神は一切の万物を愛す。神の前に犠牲となった全ての生物は幸いである。それは総ての罪悪を消滅し、新
しい神国に生まれ変わるからである』との理義《道理と正義》の明白な神示である」との神示が降る。
万物は総て神の分霊分身であるから、それを汚いと言ってしまえば人も汚い事になる。ましてや神に供えるも
のであれば、捕獲の始めから神は許されないであろう。また、祓戸の神の降神を願っての祓戸行事は天地万有
一切を祓うもので、神に奉る供物を始め、天地四方、そして人の汚れを禊ぎするものです。天地の律法におけ
る「殺すなかれ」を生物総てに適用するなら、動物は勿論植物も殺すことを禁止する事となり、食料とする野
菜や果物も食べられなくなる。天地の律法の真意は、濫りに必要もなく殺すことを意味しているのであろう。
祓戸四柱の神【6/19 祓戸の神】より
瀬織津姫神: 山々の間に河川を通じ一切の汚物を神退いに退い給う。この御息よりなりませる神。地
上の各地より大海原に、総ての汚れを持ち去る。
速秋津姫神: 地上一面に泥に塗れたる草木の衣を脱がしめむため風を起し、風に雨を添へて清めたまい
ぬ。この水火より現れたまえる神。
伊吹戸主神: 日の大神の気吹により宇宙に清鮮の息を起し、地上一切を乾燥し玉い、総ての汚穢塵埃を
払い退けしめ玉いぬ。この息よりなりませる神
速佐須良姫神: 之を地底の国に持佐須良比失う、この御息を言う。
以上四柱の神を祓戸神と称し、宇宙一切の新陳代謝の神界の大機関となしたまう。神の働きに付けた名称。
禊身(ミソギ)とは【10/27 言霊解一】 皇典美曽岐(ミソギ)の段 より
あらゆる汚穢を清め塵埃を払い、風と水との霊徳を発揮して、清浄無垢の神世を玉成し《立派に育て上
げる》、虚栄虚飾を去り、万事に亘りて充実し、活気凛々たる神威を顕彰《隠れた善行や功績などを広く知
らせること》し、金甌無欠《完璧なこと》の神政を施行して、宇内(天下)一点の妖邪を留めざる大修祓の
大神事を云うのである。現代の趨勢は、世界一般に美曽岐の大神事を厳修《厳かに執り行うこと》すべき時
運に遭遇せる事を忘れては成らぬ。大本の目的も亦、この天下の美曽岐を断行するに在るのであります。
「玉鏡」に
食物
米は陽性のもので、之を常食すれば勇気が出る、そして陽気である。麦は陰性のものである為め、陰気に
なる傾向がある。くよくよしたり、いつも泣き言を並べたりするやうになるのは此の為めである。野菜を食
へば仁の心が養はれる。魚類を食へば智慧が湧く。故に魚類も月に一度や二度は必ず食はねばならない。米
と野菜と魚類とで、智、仁、勇となる。肉食をする者には仁の心は少ない。故に野菜を常食とする日本人に
して初めて愛善の心がある。肉と云ふものは一度、草や野菜等を喰つて、その栄養素が肉となつたのである
からあまり栄養もない。そして肉によって養はれた細胞は弱い。日本人は米を食ひ、野菜を食ふから即ちま
だ肉とならない栄養を摂るから、細胞が強い。毒ガスに対しても日本人は比較的耐久力があり強い。又日本
人の歯は臼歯と云つて、米を噛みこなし易く出来て居るが、肉食人に於ては臼歯がとがつて居る。 魚は
智、野菜は仁、米は勇
肉食の害
獣、鳥、魚などの肉は一旦食物として消化されたものが肉となつたのであるから、それを摂取してもあま
り益はない。獣肉を嗜むと情慾が旺になり、性質が獰猛になる。肉食する人は本当の慈悲の心はもたない。
神に近づくときは肉食してはよくない。霊覚を妨げるものである。
キのつく動物
さきに、狐、狸、兎、雉などのキのつく動物は、食べても差支へないと云つたことがあるが、これ等は
有職故実に於ても草木と見倣したものである。
鶏をカシワと云ふのは柏の意である。 鴨の魂返しはコである。即ち木であるから食べてもかまはない
。
金沢教室
霊界物語第17巻第14章「空谷の足音」、第15章「敵味方」を拝読
14章の章題、「空谷足音」は人気のない谷間に響く足音のことで、さみしい所へ人の来訪を受ける、
予期せぬ喜び。また頼りがいのあるたとえです。そもそもこれは中国語のようで、日本では「空谷の跫音
(きょうおん)」と言う。霊界物語にでてくる言葉を調べていると、辞書に載っていない言葉がしばしば
ある。どうもそれは中国語のようだ。
青彦と夏彦、常彦達は烈風に煽られて谿間《渓谷》に落ち腰を打って動けない。そこへ宣伝歌を歌いなが
ら悦子姫一行がやって来る。まさに青彦達にとっては「予期せぬ喜び」である。
加米彦の 『貧乏人の材木屋だ。ワルぎを廻すのだ。アハヽヽヽ。青彦の青瓢箪彦、実際何をして居
るのだ。何だか知らぬが、俺は胸騒ぎがして、猿の小便ぢや無いが、ぎにかかつて仕方がない』 と
駄洒落を言っているところが面白い。夏彦、常彦はウラナイ教から改宗して三五教の信者となる。
「敵味方」では全員が眠りにつくが、馬と鹿は眠れずそっと抜け出し散策に出かける。三五教に救われた
両人は、怖い物がなくなったのでかなり遠くまで出てしまい荒鷹、鬼鷹に出会う。
鬼熊別の部下達の会話を聞いた馬公が『世界に絶対の悪人はありませぬなア』と言えば、加米彦は 『そ
うだ、如何に悪人と云っても、元はみな神様の結構な霊が血管の中を流れて居るのだから、悪になるのは
皆誤解からだ。しかし悪と知りつつ悪を行る奴は滅多にないものだ。吾々もこうして善を尽した積りでも、
智徳《智慧によって一切のものを照らし見通す徳》円満《完全に満ち足りている》豊美な神様の御心から
御覧になれば、知らず識らずの間に罪を重ねて居るか知れないよ。そうだから人間は何事も惟神に任し、
己を責め、謙遜り省みなくてはならないのだ』といっています。元々、人は皆神の分魂なので善である。
それが悪となるのは勝手な思い込みや自己中心的考えからの誤解によるのである。悪と知りつつ悪を行う
人は滅多にない。先の見えない我々はすべてを神に任せる事が大切である。神に任せ生まれ赤子の心にな
るこれが信仰の真諦であろう。
加米彦の宣伝歌によって荒鷹、鬼鷹達一同は改心する。
霊界物語第19巻 第17章「言霊車」を拝読
宣伝歌の前半は宇宙の創造から最後の七千万年の歴史が語られている。
後半はこの19巻全体の粗筋が歌われ、大正13年頃の神苑の様子が伺いしられる。明治二十五年の開教
から7年後に聖師が綾部を訪れ機の経綸の経緯が揃い、新聞や機関誌による宣伝が盛んとなるとパリサイ
人(邪霊)による誤解により第一次大本事件へと進む。しかしその中にも霊界物語の口述が始まる。
玉の礎(五)は平成26年9月に勉強しているので省略。
以上阿良田
次回
金沢 6月20日(火)午後1時30分 17巻
高岡 6月15日(木) 午後7時より 20巻
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