教室レポート(152) 2017
金沢、富山共通
愛善世界4月号掲載の霊界物語第47巻第7章「酔の八衢」を拝読。
1,現代医学では一部、人の死を脳死をもって死と決定されます。心臓や肺がまだ動いていても脳の活動が停
止した時点で死とするようです。これまでの倫理観を変えて脳死としたのは、臓器移植を可能にするための医
者の勝手な理論でしょう。しかし、これまでの例では4才の子供が脳死と判定されながら、20年以上生き続け
身長も伸びた例があります。
第11章「手苦駄女」に神様が人間の死となさる時期が明確に書かれています。要約すると、
『人の魂《精霊》と肉体が行う呼吸と心臓の鼓動が精霊と繋がりがある。それは精霊の想念《思い》と呼吸
《肺の動き》とが繫がり、愛より来る情動《心の動き》と心臓とが通じているからである。そして肺と心臓の
活動が止まった時点で霊は肉体から直ちに分離するのです。それは肺と心臓が肉体と精霊を結びつける命で、
この二つの器官が完全に停止した時、精霊は肉体を離れ霊界に復活するのです《死》。
人間の本体である精霊が肉体から離れても、なおしばらくはその体内に残り心臓の鼓動が完全に止まるのを
待って霊界に完全に復活するのである。死因によって心臓の鼓動が永く継続したり、また、短いことがある。
しかし、これは瑞の御霊の大神様のなさる所であって、人間自身が出来ることではない。』
心臓の鼓動が完全に休止する迄、精霊がその肉体より分離しない理由は、心臓というものは、情動に相応す
るからである。すべて情動というものは愛に属し、愛は人間生命の本体である。人間はこの愛によってそれぞ
れ生命に熱があり、そしてこの心臓と情動(愛)との和合が継続する間は、精霊の生命は変わらず肉体中にあ
るのである。
2, 『今となつては、吾々の触覚といひ、知覚といひ、想念といひ、情動といひ、愛の心といひ、生前より
も層一層的確になつたやうな心持が致します。』
《と辰公はいっています。現界にいる時は肉体という容器に入っているので、全て感覚や情動に制限がありま
す。しかし肉体より離脱して霊界に入ればその束縛から解放されるので、全てがより一層鮮確になるのです。
》
3,『人間の肉体は所謂精霊の容物だ。精霊の中には天国へ昇つて天人となるのもあれば、地獄へおちて鬼と
なるのもある。天人になるべき霊を称して、肉体の方面から之を本守護神と云ひ、善良なる精霊を称して正守
護神といひ、悪の精霊を称して副守護神と云ふのだ 』
《霊的に見れば霊魂(精霊)は霊界において、ただ神への愛の情動の違いによって住む場所を異にしているに
過ぎない。現世では肉体の方から見て、その精霊が天国(第一天国)に昇り得る資格のある精霊を本守護神と
いい、善良(第二天国、第三天国に昇る)な精霊を正守護神という。また、地獄に落ちる悪霊を善言美詞から
副守護神というので悪霊で有る。心のあり方次第でその呼び方が変わるので、【手苦駄女】には『人間の肉体
は言ってみれば精霊の容器です。そして天人の養成所ともなり、あるいは邪鬼、悪鬼共の巣窟ともなるのです
。同じ人間でありながら種々の変化をもたらすのは、人間が主とする愛の情動次第で、あるときは天人となり
、一方では精霊界《中有界》に迷ひ、あるひは地獄の妖怪的人物となるのである。』 とあります。》
4,『此精霊界に於て善悪正邪を審かれるのだから、最早過去の罪を償ふ術もない』
《霊界は同気相求むる世界で同じ想念と情動の精霊が集まって、一つの団体を作る場所であるから、そこでの
魂の向上は難しい。しかし、現界は精霊の修行の場であり、様々な精霊が一堂に会し魂を磨く場所である。特
に地獄に身を置く精霊は現界に生まれ来て、修行を積んで霊魂の向上を図り、より高い位置へと進むのである
。死んでから何かしようとしても、もう詮無いことである。》
5,円相: 一種のオーラ(霊衣)。
「霊界に入ると、一見して生者と亡者の精霊の区別が、判然とつくのである。生者の幽体(精霊)は、円い
霊衣を身体一面に被っているが、亡者の幽体は頭部は山形に尖り、三角形の霊衣をまとっている。それも腰か
ら上のみ霊衣を著*し、腰以下には霊衣はない。幽霊には足がないと俗間にいふのも、この理に基づくのであ
る。また現界に居て徳の高い者は、その霊衣きはめて厚く、大きく、光沢強くして人を射るようである。かつ
、よく人を統御する能力を持っている。現代はこの様な霊衣の立派な人間がすくないので、大人物といはれる
ものができない。現代の人間は霊衣が薄くなり、光沢はなく、あたかも邪神界の神々の着て居る霊衣のようで
少しの権威もなく破れている。大病人はその霊衣は最も薄くなり、頭部の霊衣はやや山形になりかけているの
も、今まで沢山に見た。いつも大病人を見舞うたびに、その霊衣の厚薄と円角の程度によって判断をくだすの
である」【2/総説】
著: [補説]「着」はもと「著」の俗字であるが、1.(書きつける。書物にあらわす)を「著」、2.
(つく。つける)を「着」と使い分けるようになった。
6,『ハイ、従いて行きます。其代りにモシモ私が地獄へ落ちた時には、先生もついて来てくれますだらう
なア』
『そりやキマつた事だ。お前を見すてて行く事が何うして出来よう。霊界も現界も凡て愛といふものが生命
だ。愛を離れては天人だつて、精霊だつて、人間だつて存在は許されないのだ』
《『天国は愛善の国だ。神は愛と信とを以て御神格と遊ばすのだ。吾々も神様の愛と信とを受けなくては生
命を保つ事は出来ない。さうして神より頂いた此愛と信を洽く地上に分配せねばなるまい。地獄に
おつるのを恐れて現在目の前に苦んでゐる此憐れな人々を救はないと云ふのは、所謂自愛の心だ、自愛の心
は天国にはない。仮令此場所が地獄のドン底であらうとも、自愛を捨て善と愛との光明にひたる事を得るな
らば、地獄は忽ち化して天国となるであらう』 【第14章 天開の花】》
章題「酔の八衢」の「酔」はこの後で、泥酔した「酔いどれの熊公」が出てきて赤白の門番と問答が始まり
ます。
金沢教室
第17巻第12章「花と花」、第13章「紫姫」を拝読。
「花と花」は場面は変わって悦子姫、音彦、加米彦3人は大江山の峰続きにある鬼ヶ城を言向け和さんと真
名井ヶ原を後にして御嶽山に向かいます。谷川にさしかかると一人の美人が血に塗れた衣を洗っている。
この美人は紫姫で真名井が原の豊国姫の聖場に参詣する途中で荒鷹、鬼鷹に捕らえられて、下僕2人が殺さ
れ、その着物を洗っていたところである。一行は紫姫に案内され岩窟へと向かいます。章題「花と花」は
悦子姫と紫姫の二つの花でしょうか。
「紫姫」は荒鷹、鬼鷹は鬼ヶ城に行って留守で、子分達は酒に酔って寝ている。真名井が原の豊国姫様の
命令で潜り込んでいた丹州と出会う。丹州によって馬公鹿公は助けられており、紫姫と再会する。いよい
よ一行7人は天津祝詞を奏上し宣伝歌を歌い終わって鬼ヶ城へと向かって出発する。
第19巻第16章「玉照彦」を拝読。
ここに幽霊の話が出てくる。松姫を思う熊公は幽霊となって松姫に付き添っている。来勿止の館の前にい
る熊彦の肉体は本守護神の千代彦が守り、松姫を思う一心の誠が通って霊魂が幽体を現わし松姫に付き添
っている。ここで神国守は「ヤア、そう聞くと貴方は或人の幽霊だな」といっている。人の思いが極端に
強いと幽霊となるようであるが、幽霊にも善悪があり昼夜に関係なく現れるようだ。
そして玉照彦様を捧持して帰ってきた一行を現体である英子姫、悦子姫など肉体を持った人々や多くの幽
体が奉迎している。
いよいよここに玉照彦、玉照姫の二柱の神人が相並び、ミロク神政の基礎が固まることとなった。
以上阿良田記
次回
金沢教室 5月15日(月) 午後1時30分より
高岡教室 5月25日(木) 午後7時より
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