教室レポート(148) 2016
金沢、高岡共通
愛善世界誌平成28年12月号掲載の霊界物語第67巻 第21章「針灸思想」を拝読
物語の背景はシャカンナの息子アリナが語るように、インドのデカタン高原の西南方にあるタラハン国(、人口
二十万ほどの国)のカラピン王はウラル教を信じて十数代を継続した。王妃をモンドル姫といい、二人の中には
太子スダルマンと王女バンナの二子を挙げていた。
王妃の悪行から十数年が過ぎ、太子スダルマンと左守の司の息子アリナが写生に出かけた。大自然を初めて見た
太子の歓喜は絶頂に達し、ついに三日三夜深山にさまよい、前の左守の司のシャカンナが隠家にたどり着いた。
太子とアリナが戻らないので王宮は大騒ぎとなり、腹黒い右守のサクレンスは左守を責めます。腹に一物ある右
守は王政を廃して共和制を主張するので、怒った左守は右守に切りつけ刃傷沙汰となった。
この「針灸思想」はシャカンナの隠家から戻った後、一ヶ月の謹慎を命ぜられた息子のアリナと父ガンヂーと
の会話である。古い考えの父親は王政を維持するためには、従来通りの専制(独裁)と強圧政治によって治めよ
うとし、息子アリナは時代の変化を感じ共和主義を主張します。
章題の「しんきゅう」は本来は新旧思想であろうが、なぜ針灸思想としたのであろうか。針灸は人の病を治す行
為である。ここでは親子の間の新しい考えと、古い考えとの論争であるが、病んだ国家タラハン国を針灸療法す
る事への暗示であろうか。
またこの物語が口述(大13.12.4。1924年)された大正時代は明治の末から起こったチャイナ(中国・辛亥革命
、1911~12年)、スラブ(ロシア革命、1917年)、プロシャ(1919年)などの専制政治から、共和政治へと移っ
てゆく時代背景が見える。
御存知のように、大古の昔世界の統治は、国常立命が居れ、其の下に実質政務を執るのが天使長でした。それ
に習い各山に八王(国魂神)と八頭(宰相)が居り、その地域(後に国)を治めて来ました。この形が物語の中
ではずっと続いています。従って、此がミロクの世に於ける正しい政治のあり方で統治の仕方だと思います。
三十六巻(シロの島)、四十一・四十二巻(イルナの国)、五十三・五十四巻(ビクの国)までは王家〔八王
(王)と八頭(左守、右守)〕のいわば内紛です。世が下り人々の心が乱れ、特に右守が王家を蔑ろにし自分の
意のままに動かそうとします。28巻の台湾島や、また36巻シロの島では竜雲というウラル教の妖僧が入り込
み王家を乗っ取ろうとします。それは肝心要の王が神を第一とした生活をしていないからです。王家(統治者)
の乱れがその臣下に移り、臣下もまた乱れ、邪神の活躍する所となるのは必然です。時代が下り、67巻以降はそ
れに民衆が加わります。統治者(王や左守、右守)のわれよしの心と民衆との間の時代錯誤による圧政が始まり
ます。解決は若い王子、王女達と民衆が協力して改革を成功させます。そこには必ず天地の神を信仰する三五教
の宣伝使によって解決を与えてくれます。 何時の時代も為政者の神を忘れた心と古い考えでは民衆との間に乖
離があり、上から目線の抑圧した統治では民衆は苦しむだけで納得いきません。
物語の中ではいずれも宣伝使によってこれら為政者や周囲の人々が正しい信仰に目覚め改心しますが、このタ
ラハン国では明確に書かれていません。しかし、確かに個人の明確な改心は書かれていませんが、大宮山の中央
に大国常立命尊、豊雲野尊。左に素盞嗚尊、大八洲彦命。右に盤古神王、国魂神を鎮祭し、また新王スダルマン
はシャカンナを左守に、アリナを右守にし、民意を受け入れ平等博愛の政治を行います。これらは表面には出て
来ませんが、全て梅公別宣伝使(言霊別の化身)の三五教の教に基づく御諭しと指導によるもので、即ち改心で
あり活躍です。
木庭先生の書かれた「霊界物語資料編」には、『真の神を信仰する指導者(王)を仰ぐ国家社会は、必ず真神の
守護によって、治国安民ができるとの真諦が示されている』とあります。
最終的には、革命が起こり王家は危うくなりますが、梅公宣伝使が現れタラハン国の新しい神柱である指導者
スダルマン王子を教化育成し、天上の姿である祭政一致の政治を実現します。
ここには物語が口述された大正時代の世界情勢が反映されています。この時代は専制政治から共和政治への転換
期であり、物語は最終的には梅公宣伝使によってタラハン国には本当の政治体制である、祭政一致の政治が確立
します。
金沢教室
第十七巻第六章「瑞の宝座」を拝読。
豊国姫が時々神姿を現はし給うという瑞の宝座では石の上で悦子姫が歌い舞っている。次いで音彦も宣伝歌を歌
う。そこへ加米彦と青彦は黒姫が高山彦ともに攻めてくると言うので、悦子姫の命令で言霊戦に向かい、敵をや
っつける。
一方豊国姫は悦子姫に神憑して豊国姫の出現を宣示し御神業が示されます。そして、『鬼雲彦を使役する八岐大
蛇の片割が鬼ケ城山に隠れて、聖地を蹂躙しようとしているので、神を力に誠を杖に善く戦い、誠の鉾を執つて
敵を言向け和せと宣示されます』
第十九巻第九章「身魂の浄化」を拝読。
鬼熊別の部下であった荒鷹、鬼鷹は言霊戦の後皆と別れ 自分たちの行く道を模索しています。今は大枝山(老
いの坂)から千代川の鳴石の所まで来て鳴石に座っていると石が鳴動し、そこから白い煙が立ち上り、二人の稚
児を連れた女神が現れます。そして其の丹州に似た女神から隆靖彦、隆光彦と名をもらい、女神(本守護神)の
姿になります。
大川の堤に向かった二人に突き当たる二人の男があります。二人は馬公、鹿公で紫姫、青彦の失敗を雪がんとし
て高城山のウラナイ教の松姫の館に行くのだと云います。ここで松姫を言向けやわし手柄を立てようという隆靖
彦、隆光彦の二人に対し馬、鹿は自分たちに手柄を譲ってくれと頼みます。
ここに載せられている宣伝歌は信仰の妙味と効果がよく現されています。
冒頭荒鷹は「自己保存は人生の本領だと思い詰め、利己主義の行動を以て金科玉条として居たが」といっていま
す。
自己保存とは心理学用語の一つで。これは生物に備わっている本能であるという概念が存在しており、生物とい
うのは自己の生命を保存するとともに発展させようとしているということです。しかしそれが時として悪い方に
働き、失敗を弁解したり、嘘をついたり隠したりする方向に働き、さらに悪化させる可能性が大きいのです。自
己防衛の欲求から来ているのでしょうが、すべてを神に任せるという気持ちがあれば失敗も素直に受け入れるこ
とができ、前進することが出来ます。
企業のリコール問題などは良い例で、隠すことでより悪化させています。
以上阿良田記
次回
平成29年1月15日(日) 金沢・高岡合同 午前11時30分より 第19巻
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