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教室レポート(143)        2016











金沢教室 7月8日(月)  

富山、金沢共通

愛善世界誌平成28年7月号掲載の霊界物語第20巻「霊の礎(七)」を勉強。  

1、すべての人間には天国に昇り得る人間特有の資質(うまれつきの性質や才能。天性)を持っている。これ

が神心とか仏教徒が言う仏の本性である。人の魂は禽獣虫魚が輪廻転生によって人と進化してきた場合と高天

原の天人の間に生まれた霊の子がある。だから人として生まれた以上は天国に昇れないはずがないのである。

第32巻には高姫達が兎の都で鷹依姫達と出逢い、すべえの猛獣をことごとく言向け和し、肉体を離れた後は必

ず天国に救われ、後人身を持って地上に人間として生まれて来て、神業に参加する事の約束を与えた事が書か

れています。同巻第13章「平等愛」には

『古の怪しき獣は、今日に比ぶれば、其数に於て其種類に於て最も夥しかつた。併しながら三五教の神の仁慈

と言霊の妙用によつて、追々に浄化し、人体となつて生れ来ることとなつた。故に霊の因縁性来等に於て、今

日と雖も、高下勝劣の差別を来たすこととなつたのである。併しながら何れも其根本は天御中主大神、高皇産

霊神、神皇産霊神の造化三神の陰陽の水火より発生したるものなれば、宇宙一切の森羅万象は皆同根にして、

何れも兄弟同様である。

 同じ人間の形体を備へ、同じ教育をうけ、同じ国に住み、同じ食物を食しながら、正邪賢愚の区別あるは、

要するに霊の因縁性来(生まれつきその魂が持つ定められた運命又は動機や関係(縁))のしからしむる所以

である。』 とある。


2、「神性」を(しんしょう)と読ませています。人の本性は本来神と同じ性質と云うことでしょうか。した

がって神に頼らず自己に頼るばっかりに、体主霊従の自分本位で己の小さな考えにとらわれてしまい、神とな

るべき人本来の性質を忘れ、自ら招いた地獄の苦しみに堕ちて行くのでしょう。

「天の使」は出口聖師であり、「神の尊い御教」は霊界物語です。世界の四大宗教はその教典は皆後の世の人

が著したものであり、予言者自らが書かれたものではない。しかし霊界物語は聖師(救世主)が直接書かれた

もので、その内容は森羅万象全ての事に亙っています。


3、真実の太陽(厳霊)は生死の迷いを照すという。「本有常住(永遠に変わることのない)の月神」とある

。救世主である瑞霊の教えは迷いの雲を取り去ってくれるという。ミロクの大神様が御出現になった現代はミ

ロクの世を迎える最終段階に来ているのです。これまで多くの神様達は生き変わり死に変わりしてミロクの世

が来る日を待っておられた。そして五六億七千万年を経ていよいよミロクの世を迎えるこの時期に現世に生ま

れ来たということは何と幸福なことか、金剛不壊の如意宝珠(最も尊い宝)を両手に受けたようで、無限の歓

びに咽ぶものと表現されています。まさに感謝の波に漂い身も世もあらぬ思いです。

三千年待って迎えたこの千載一遇のチャンスを得ながら、大本信者は御神諭、霊界物語を勉強せずして何をし

ようというのか。 

 「人の心霊の歓喜とは一つ々々をよく知って理解することから来る歓喜である」とある。人は新しいことを

知り得たとき歓びを感じ、それが理解出来たときはいっそう歓びを感じる。そして大本(厳瑞二霊)の教えを

聴き、この世に生まれ来て永遠の命を受けた存在であることを理解し得たことは大きな歓びである。 


金沢教室 

 第16巻第20章「思はぬ歓」、第21章「御礼参詣」を拝読。

20章では、竜灯松の麓に落下し爆発した大火光団は大小無数の玉となり、ついに悦子姫の全身を取り囲みたち

まち体内に吸収された。それは日の出神の神霊を身に浴びたのです。そして悦子姫はただ一人真名井ケ獄に向

って矢を射ったように進んで行きます。残された一同は、加米彦の「竜灯松を基点として岩滝迄、マラソン競

争だ」というかけ声に走り出します。びっこの岩公は一人残され、しかたなく松の下に繋いであった船を漕ぎ

、岩滝に先行します。

走ってきた一同もそろい、岩公の案内で音彦一行は黄昏前、比治山の手前に辿り着きます。

一同は平助、お楢の家に宿を借りようと交渉しますが断られてしまいます。困っている所へ悦子姫は平助の娘

お節を連れてきます。平助お楢とお節は1年ぶりの再会となり大喜びをします。

岩公が『旧悪露見の恐れがあるから、貴様としては無理もないが、綺麗薩張と爺様婆様にお断りを申たら何う

だ、何時迄も悪を包みて居ると罪は取れぬぞ、罪と云ふ事は包みと云ふ事だ、何卒改心の証拠に爺さまに一つ

お詫をして思ふざま十能で頭を打いて貰つたら、ちつとは罪が亡びるだらうよ』と言っています。

罪と云ふ事は包むと云ふ事だというように罪を隠そうとする間は本当の改心ができていないのです。むしろ自

分から犯した罪を暴露出来れば本当に改心ができた証拠です。


21章では、娘が戻ってきたので、娘を助けた悦子姫の弟子と言うことで一同を泊める事にしますが、悦子姫は

音彦と加米彦を連れこの場を立ち去ります。

残ったバラモン組の5人のうち、お節を拐かした鬼虎、鬼彦は泊まることを拒絶されます。しかたなく二人は

夜通し歩くことにします。

「皆殺し、半殺し」についてウイキペディアを見ると


 1.徳島県那賀町で作られている、もち米にうるち米を混ぜたものを半分だけ潰して作った郷土料理のおは
 
   ぎのこと。


 2.小豆を裏漉ししつつ小豆をのこした餡子の常態。現代では一般につぶ餡と呼称される。これに対し全て

   裏漉ししたものをぜんごろしという。

 3.
きりたんぽを作る時、ご飯を半分だけ潰すこと。

 4.
もう少しで死ぬほどに痛めつけること。

もち米や餡のつぶし方を表現したもので、秋田県男鹿地方、長野地方、丹波地方、徳島地方とかなり広い地域

で使われているようです。さらに「手打ち」というのもあります。「手打ちそば」の手打ちです。


高岡教室 7月21日(水)  

 

第19巻 第2章「(いすか)の嘴」を拝読。

章題の(いすか)は「主に針葉樹林内で生活し、非繁殖期は数羽から10数羽の群れで行動する。樹木の種子や小さな

昆虫をえさとする。マツ等の針葉樹の樹上に枯れ枝を材料としたおわん状の巣を作る。

イスカのくちばしは左右互い違いになっており、このくちばしを使って、マツやモミなどの針葉樹の種子をつ

いばんで食べる。たまごからかえって間もないひなは普通のくちばしをしているが、1~2週間経つと先が交差し

てくる。しかし下のくちばしが右に出るか左に出るかは決まっていない。そして、このくちばしから物事が食

い違うことを「イスカの嘴(はし)」という。

ここでは黒姫と青彦、紫姫達の思いがくいちがっていたようで、信頼しきっていた青彦に裏切られた黒姫の胸

中は察するに余りある。

高姫が「膿ンだ鼻が潰れたとも云ふ便りが無いぢやありませぬか」といっています。私が知るているのは「熟

んだ柿が潰れたとも言ってこない」ですが、「膿んだものが潰れたとも言わない」という言い方があるので物

語の言い方もあるのですね。

                                     以上阿良田記


次回   金沢・富山合同 8月3日(月)午後6時より 第19巻


大阪教室 714日(木)  


第25巻8章「奇の岩窟」から。

 クシの滝の大蛇を言向け和し、飯依別はじめ里人らに改心を促した清公とチャンキー、モンキー。モンキーは

飯依別らを地恩城へ案内し、左守スマートボールの伝言を携えて戻ってきます。そして三人にアイル、テーナの

二人を加えて宣伝の旅に出発しました。道中襲い来る猛獣の群れに言霊の発動も出来ませんでしたが、白狐に導

かれて岩窟に逃げ込み一安心。と思いきや、大怪物は岩窟の中にまで入ってきます。五人が一心に天津祝詞と天

の数歌を奏上すると、怪物は喜び、握手を求めてきます。そして口より霧、焔、水、風を吹きだし、五人の心魂

を清め、玉となって中空に消えてしまう、という不思議な物語が語られます。

 さらにスワの湖に着いた五人は水底深く落ち込み、救われた島で金銀の蛇とムカデに蹂躙されますが少しの痛

みも苦しみもなく、こそばゆさに笑いが止らなくなる情況です。しかし一人モンキーにだけは蛇もムカデもたか

らず、避けられてしまいます。モンキーは自分が善ゆえに避けられるのか、悪ゆえに避けられるのか深く悩みま

す。そしてモンキーは突然現われた緑毛の亀の行動を一生懸命に真似していると、他の四人と同じように目無堅

間の神船に乗せられました。この奇妙な体験により、モンキーは一切万事神様にお任せし、理智に頼らず、神の

慈悲心にすがるべきことを悟りました。

 モンキーは金銀色の光り輝く岩窟に導かれ、その中で青、赤、紫、白、黄の五つの玉と、それぞれの玉の中に

初稚姫など五人の姿を見ますが、その場に倒れてしまいました。


 次回は第11章「風声鶴唳」から。地恩城の黄竜姫と友彦をめぐる話に移ります。

                                                          (長谷川記)