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教室レポート(141)        2016











大阪教室 5月12日(木)  
 

 今回から25巻に入りました。この巻では蜈蚣姫と黄竜姫の母娘、および友彦、清公らの身魂が磨かれ、前巻

で玉依姫命に神示を受けた初稚姫らとともに五つの玉の神業に奉仕する物語が描かれていきます。


 オーストラリアの地恩城では、ブランジー(高山彦)とクロンバー(黒姫)が日本へ帰った後、高姫の元部

下であった清彦が左守の司、鶴公が右守の司の重職にあって女王・黄竜姫を補佐していしましたが、思い上が

った清公の態度に蜈蚣姫の部下スマートボールは憤懣やるかたありません。スマートボール、貫州、チャンキ

ー、モンキーら鶴公派は清公に辞職を要求しますが、鶴公はあくまで上位の清公を立てようとします。

 一方、ジャンナイ教教主の夫となった友彦が軍隊をもって攻め寄せてくるという噂に、対応をめぐって黄竜

姫と蜈蚣姫が対立しますが、結局母娘の心は同じだったとわかり和解します。そして友彦攻め来たるの噂は清

公派の金州らが流したものだと判明、一同感謝祈願の祝詞を奏上するため神殿へ。


 次回はこの清公派、鶴公派の対立が黄竜姫の意外な裁定により決着か、と思いきや、どんでん返しの結末と

なる面白いお話です。お嬢様育ちゆえの独断専行が抜けきれない黄竜姫ですが、芯が通っており、そこが王者

としての風格ともいえる魅力的なキャラクターとなっています。


 次回6月9日(木)19時より大阪研修センター(十三)研修室Eにて 第25巻第3章「鶍(いすか)の恋」から

読み進めます。


                                                          (長谷川記)



金沢教室 5月16日(月)  

金沢。富山共通

愛善世界誌5月号掲載の霊界物語第47巻第16章「霊丹」を拝読。

まとめ

治国別と竜公は木花姫の御化身に導かれ、雲に乗って第二天国の入口に着いた。そこに来ると俄に息は苦しく、

全身の力は抜け震いおののいている。天国というのは神の正しき慈愛と高徳によって構成された、愛と善とに

満ち満ちた国土であると言うのに、木花姫の化身は治国別や竜公には一切見向きもせず、巨大な光となって行

ってしまった。

治国別は自分可愛さから肝腎な時に「師匠を杖につくな、人を頼りにするな」という教えがある事を忘れてい

たと嘆き神様を一生懸命に祈りますが時すでに遅しである。しかし、「治国別は何処までも神に従い神を頼り、

神の神格《権威》を信じ、こうした場合にも微塵も神に対し不平や恨みの気持を待たなかった。」とあります。

それが「どうなるのも神様のお心次第」ということです。

この場合私であったら信仰浅き故に木花姫命に頼り切っていたので、つい木花姫命に不平を言ってしまいます。

ここでは『神格』が問題になります。木花姫命と言えば相当に高い神格を備えた神様でが、治国別はあくまで

も主神信仰で、如何なる場合も最高神に対する信仰でなければならないのです。


 木花姫命は今までの天国の案内者ではなく、月の大神の使いとして再び現れ二人に「霊丹」という天国の薬を

口に含ませると蘇生します。

『すべて天国には善と真とに相応する順序が厳然として立っておりますから、この順序に逆らえば大変に苦し

いものですよ。身霊相応の生涯さえ送れば、世の中は実に安楽なものです。水に棲む魚は、陸に上ればすぐ命

がなくなるやうなものでござります』 とあります。善と真とに相応する順序とは善は愛に真は信に相応し、

その人(精霊)の持つ人格(神格)の高さに応じた場所に住むのが相応の理(それに相応しいという道理)で

す。愛と信の程度に応じた所に住めば容易く生きられますが、第三天国に相応した神格しか備わっていない彼

等が第二天国の入口に来たので身魂不相応のため苦しんだのです。

そこで治国別は八衢人間である自分が慢心して、天国の巡覧を思い立ったのは不覚無調法と自分を戒めていま

すが、木花姫命を媒介者《仲立ちをする人》として天国を巡覧するので身分不相応とはいえず、ただ肝腎要の

如意宝珠を道に落してきたと暗示を掛けます。

霊丹を与えられるのは月の大神様の権限でる。

蘇生した治国別は木花姫命に感謝の言葉を述べますが姫神は 『私は貴方の命の親ではありません。貴方の命

の親は月の大神様ですよ。私はただお取次をさせて頂いただけですよ。左様にお礼を申されては、何だか大神

様の御神徳を私が横領するやうに思はれて、何となく心苦しく思われます。宇宙一切は月の大神様の御神格に

包まれて居るのでございます。私などには御神徳を伝達する事は出来ても、命をつないだり御神徳を授ける事

は出来ません。この後は何事があっても、たとへ少しの善を行いましても、愛を注ぎましても、決して礼を云

って貰っては迷惑に存じます。どうぞ神様に直接にお礼を仰有って下さい』ときっぱりと拒絶します。

吾々は神様の御話や御用をして礼を言われるとつい心恥ずかしく思いながらも金品を受け取ってしましますが、

「神様の御神徳を私が横領する」とあるように本来はお断りすべきものです。凡て大本の中に於いてすること

は御奉仕です。奉仕(ボランティア)は然(さ)せて頂くもので為(す)るものでは有りません。そうは言っても

現代社会に於ける人とのつながりでは全く断ると角が立つ場合が往往にしてあります。

「麻柱の誠」とは手柄を立てても全て神様のものとして自分のものとしない事にあります。

 

如意宝珠について

治国別は木花姫命から如意宝珠を道で落したと言われます。自然界の形態を具えた宝玉ではなく、天界の事象

事物は総て霊的事物より構成されて居りますれば、想念上より作り出す如意宝珠だといわれます。霊界は想念、

即ち思いの世界ですから、その思いが形となって伝わるのです。

治国別には一向に心当たりがありませが、そばに居た竜公は大神様の御神格の内流によって「天津祝詞」のよ

うな善言美詞の言霊だと気付きます。「天国に於ては愛善と信真より来る智慧証覚の勝れたものが最も高き位

置につくのでございます(如意宝珠=善言美詞の言霊)。神を信ずる事が厚ければ厚い程、神格の内流が厚い

のでございますから」とある。治国別の様に少し理屈がわかり理性的にふるまおうとする人より、竜公のよう

に素直にただ神様を何の疑いもなく一直線に信ずる心の方が神様は喜ばれるのです。この如意宝珠の善言美詞

は第15巻第20章「五十世紀」に似た所があります。


金沢教室 

霊界物語第16巻第17章「谷の水」、第18章「遷宅婆」を拝読

今回のこの部分はどこの教室も必ず通過する所で、何方にとっても馴染み深い所です。悦子姫に天照皇大神が

神懸りし給い、宮殿の造営を命じなさいます。英子姫、悦子姫、亀彦の3人は神勅を畏み谷川で禊ぎし、天津祝

詞を奏上して忌鋤、忌斧を作り宮殿の造営を百日百夜を掛けて完成させます。そして天照大御神の神霊をおぎ

奉り、鎮祭式に奉仕します。ここが丹後の元伊勢で大本とはとても縁の深いとこれです。


高岡教室 5月19日(木)  


霊界物語第18巻「霊の礎(四)」を拝読 

ここは平成二六年八月号の愛善世界誌に一度掲載されています。内容は(教室レポート 120)に載せてあ

りますのでそちらを参照されたい。

                                           以上阿良田

次回 

金沢 6月20日(月)午後1時30分 16巻

高岡 6月16日(木) 午後7時より 19巻