教室レポート(139) 2016
愛善世界3月号掲載の霊界物語第50巻第1章「至善至悪」を拝読。
まず本巻(第50巻)の主人公である初稚姫と高姫の霊魂上の位置及びその情態を略述するとある。情態とは
有りのままの姿である。
* 黒鉄時代に生きる初稚姫は清浄無垢の若き妙齢の娘で黄金時代の天的天人と向上して、一たび言霊を発す
れば天地は震い動き、風雨や雷を使い、地震、雷、津波その外風水火の災をも自由に鎮める神力を備へていた。
そして愛善の徳が完全に身に備わっていたが、生活態度は極めて控えめで、神力を現はす事を好まなかった
(謙譲の美徳)。大神の直接神格の内流に充され、、大神の御声を聞き、真の善よりする智慧証覚を備えていた。
それで霊肉共に一見して凡人ではないことがわかった。
* 八岐大蛇ののさばる月の国へただ一人出征して、神を親や師匠とし、また、愛善の徳と信真の徳を杖として
いたので天上天下に恐れるものはなにもなかった。また、相手に嫌悪感を起させる事はなく、姫の説く所は理性
的で、何れも愛善の徳と真善の光である大神より来る智慧証覚によるもので、ものに偏らず中庸といった真理を
超越していた。それで姫には誰も喜び従がわざるを得なかった。
* 理性《概念的思考の能力。実践的には感性的欲求に左右されず思慮的に行動する能力。②真偽・善悪を識別
する能力》
真理の三つの階級
低級の真理: 法律、政治の基礎を間違えることなく現界において行動し、最善を尽し得る場合。
中程の真理: 師従、夫婦、父子、兄弟、友達ならびに社会に対し、五倫五常の完全な実行を遂げる。
最高の真理: 愛の善と信の真に居り、大神の直接内流を受け神と和合し、外的(体的)観念を去り、万事内的
(霊的)に住し得る(すでに天国に住所を置く)もの。
どんなに法律を解し政治を説き、あるいは五倫五常を詳細に説明し解しているつもりでも、これを実行しなけ
れば、いわゆる偽善者である。そして霊界では無智で卑しい人にも劣るものとして扱われる。これと同様、どん
なに社会的地位が高くても、神より来る最高の真理にいない者は霊界では実は賤しく醜く、中有界又は地獄界に
いるのである。現界に居て有識者や有力者と云われる人も霊界では真の理性でないため、阿呆のように見え動作
も不自然で四肢は慄い戦いている。それは学者など現代の人間が理性的とか理智的とか、物知り顔に云っている
その意見や説、また著書などはどれも自然界を基礎とし、不完全な先人の個人的意見や教義を基として種々の自
然的知識を発育させたものである。従ってだたの記憶のみで、決して神に基づく理性的知識ではない。言い換え
れば体的事物の奥にある霊的事物や真理を見る事が出来ず、真の理性に達していないからだ。
* 神の真理を無視した学識や智能は何れも地獄に向っており、地獄界より来る自愛や世間愛に基く詐りの知識
は霊界に入れば全て剥奪され残るのはただの恐怖と悲哀と暗黒とのみである。神や霊界を否定した人間は 霊的、
神的生涯を生きる準備が一つも出来ていない。だがむしろ魯鈍(愚かで頭の働きが鈍い)な人間の方が朧気なが
らも霊界を信じしかも恐れるから、驕る心なく心の中は常に素直なので霊界に入っても神の光を浴び、神の愛を
受けるのである。
* 現界人には到底人間の真の姿は分らないものである。聖師様は物語一巻の附記「霊界物語について」で『ど
んな人間といへども最初の一瞥によつて其の内容や心が読めるものです』といっている。聖師や初稚姫のような
肉体がそのままに天国いる神人は、人の面貌や言語や動作に一度でも接すれば、その人の生涯を知り、人格の如
何をも洞察できるのである。また怒るべき時に怒らず、少々無理なことでも、何とかして表面を飾る人は世間か
ら聖者などと思われる事が多い。人間は偽善者や表面だけ飾った人にたいして、それを判別する能力がないから
賢者や聖人と見誤ってしまう例が沢山ある。瑞の御霊の神諭に……人の見て善とする所、必ずしも善でなく、人
の見て悪とする所、必ずしも悪でない、善人と云い悪人と云うも、ただ頑固で無智な盲目の目に映じた幻影にす
ぎない……と示してある。
* 次に高姫の霊界での地位が書かれている。宇宙には天界、精霊界(中有)、地獄界の三界あり、精霊界は霊
界と現界の中間に存在する。精霊界には自然的即ち肉体的精霊が団体を作って、現界人を邪道に導こうとするも
のがいると書かれている。
肉体的精霊には色々の種類があり、その形は人間に似て人間ではなく、天狗や狐狸、大蛇等、一種の妖怪で、
暗黒な現界にわがもの顔にのさばっている。これらは地獄界でもなく一種の妖魅界又は兇党界と呼ばれ、人間に
譬えれば流浪の徒である。彼等は村里に定住せず山中や河原などで漂泊の生活をおくってる人々〔現代では見掛
ける事がないが、昔は居た浮浪者(河原乞食など)〕のように、山の入口や川の堤、池の畔、墓場の附近などに
群がり、道理に暗く頑固な妄想家のすきを狙いその人間が抱く慾望に付け入って肉体に入って来るのである。こ
の肉体的精霊は憑依する人間の物をすべて吾物と思っている。人間の記憶と想念に入って大神と自称し、あるい
は予言者をまね、ついに自ら真の予言者と信ずるようになるのである。しかし彼等は先見の明がなく、一寸した
先の事も知り得ないのである。なぜならその心性は無明暗黒の境域に居るからである。
侵入して来た妖魅は憑依した人間の想念中に蓄えた記憶(ここでの例は先に読んでいた開祖の神諭など)を利
用し、これを基礎として種々の予言的言葉をもてあそび、しかも筆先などと言って、似非(えせ)筆先を書き頑
固で無智な世の人を丸めこんで、ついに邪道に引き入れようとするのである。開祖の神諭に……先の見えぬ神は
誠の神でないぞよ……と示されたのは此間の消息を洩らされたものである。開祖の三女、福島久が書いた(精神
病者の書く支離滅裂な)筆先が物語四十巻「序文に代へて」に載っている。
此物語の主人公である高姫は即ちこの好適例である。「高姫(福島久)は自己の記憶と想念と、憑霊の言葉の
外には一切を否定し、かつ熱狂的に数多の人間を自分の説に従わせようと焦慮するのである。この熱誠は火の如
く暴風の如く又洪水の如し。どんな神人も徳ある人もこれを説得し服従させ、善霊に立ち帰らせることは天下の
困難事である。故に高姫は一旦改心の境に入ったように見えたけれども、再びつきまとう兇霊は彼の肉体の隙を
見すまし、又もや潮の如く体内に侵入し、大狂態を演ずるのである。」ウラナイ教の人々は瑞の霊のお救いによ
り、高姫を除いて皆救われるが、高姫だけは改心と慢心を繰り返し決して救われることは出来ないように見える。
祠の森におて杢助と現れた妖怪は形体的兇霊で高姫の心性に相似し、接近しやすい便宜ありしを以て互に慕い
求めて」とある。同気合い求むというか、高姫や黒姫によってウラナイ教に引き寄せられる人々も霊相応の理に
よるのであろう。
第18巻第15章「遠来の客」を拝読。
突然フサの国から高姫が、神聖な偉人(玉照姫)が出現したとの噂を確認しに、天の磐船に乗ってやって来た。
黒姫は如才なく玉照姫を手に入れる手段を講じていると、綾彦、お民を使っての作戦を耳打ちします。そして青
彦が帰ってきた事を喜び、紫姫や馬公鹿公がウラナイ教に入信した事を報告します。高姫は紫姫の態度に感心し
「私と一緒に北山村の本山へ来て貰つて、本山の牛耳を執つて貰はねばなりませぬ」と、ぞっこん惚れてしまう。
高姫が来た事を祝して神前で天津祝詞を奏上し、直会の宴が始まる。
以上阿良田記
次回
富山・高岡教室 4月21日(木) 午後7時より 18巻
高岡教室同様、愛善世界3月号掲載の霊界物語第50巻第1章「至善至悪」を拝読。(高岡教室参照)
第16巻 第14章「鵜呑鷹」、第15章「谷間の祈り」を拝読。
第15章では多くの老若男女が山奥に向かって進み行く.亀彦は一人の男を捕まえて何処へ行くかと問えば、剣尖山
の谷間に結構な神様が現れたという。男の話からウラナイ教の青彦ではないかと調べに行く。
青彦は谷川の岩壁に産釜、産盥と言う水壷がありその滝壺の側に立ち、数多の老若男女に向かって病気癒しや神
占をしておおくの人を誑惑している。悦子姫は青彦の後ろに回って青彦の託宣とは反対をいう。闇に隠れている
悦子姫の姿を暴露しようと枯草を集めどんどん火を焚くと、雀蜂は驚いて青彦の目をめがけて攻撃する。ついに
青彦は全身を蜂に刺され、又参詣人も刺されて阿鼻叫喚の巷となる。
三五教の宣伝使の唱える「惟神霊幸倍坐世」を一同は一生懸命に唱えると目の腫れは治まる。
以上阿良田
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