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教室レポート(136)        2015











金沢教室 12月7日(月)  


愛善世界誌がまだ届いていないので、六月号掲載の霊界物語第12巻第4章「初蚊斧」を勉強した。

 初公は『優勝劣敗弱肉強食の此世の中が渡れるものか。善ぢや善ぢや世の為だ、国の為ぢや、人の為に

は身命を賭してナンて吐かす奴は、みんな偽善者だ。・・・・・世間の奴は善に見せて悪を行る、俺は悪

に見せて善を行ふのだ。』と言っています。

 今の世の中は多くの場合一見善に見せて、よくよく考えると自分達の利益の為だけに行っているのです。

上に立つ人達(国会議員や、社長、有識者)の中で多少社会のため、国のためと言っていてもせいぜいが

日本一国の為で世界のためという程の視野を以て考えている人はまずいないでしょう。又企業家でも開発

する物が消費者にとって最も適切な価格で売ろうとは考えず、自分達の利益が優先します。そこには優勝

劣敗強い者勝ちの理論が働きブランドや希少価値、独占市場によって売り手が勝手に価格を決めているの

です。世間的にはそれが当然と考えられていて誰も疑問に思いません。また医療の面ではよく言われるこ

とですが、行政は多くの場合国民のためより製薬会社に顔が向けられています。

しかし、ミロクの世では決して個人の利益を優先しません、全ての人にとっての利益が優先されるのです。

この考えは決して社会主義や共産主義ではありません、個人優先(自利心)ではなく神のもとに社会全体

にとって何が優先されるかを考えるのです。

 蚊取別の神力に驚いた初公は自分にも神力があれば酋長にウンと言わせるのだけれどと言えば、蚊取別

はではやってみろと言います。初公は自分に出来るかな?と問えば

蚊取別は『それが悪いのだ。自分が行ると思ふから間違ふのだ。お前は唯神様の機械になる丈だ。サア手

を組むで一同に向かつてウンと行つてみい』と言われ、初公は半信半疑で行なうとみんなの霊縛が解けま

す。

 ここでは何事も神様のお力で、自分がしていると誤解しているが、九分九厘まで神様のお力であり自分

はただ神様の手足(機械)になる丈だと戒めます。大本人は此の事は頭ではある程度理解出来ますが、現

代の吾々にはとても実行の出来ないことのようです。余りにも物質的に恵まれ、社会組織が個人を基本と

しているため、他人による、特に神様によって活かされていると言うことを実感し、心の底から受け入れ

られないのです。

今月号の大本神諭(明治三十六年旧五月八日) に以下の教が載っています。

「判らんのは自分は偉らいと皆慢心が在る故に、肝腎の本源の教が汲み取れんぞよ。慢心致して上位じゃ

と思うて居ると、下へ落ちなならん事が、此の大本は出来る事が在るから、チットも気赦しは出来んぞよ。

・・・・世に落ちて居りた身魂は、水晶に早く磨けるなれど、上へ上りて学で智恵の出来た鼻高学者が気

の毒な事に成るが、夫れでも身魂の洗濯を致して綾部の大本へ参りて、誠の教の耳へ入る人民で在りたら、

直ぐようして与る此方なれど、我が上じゃと思ふ人民斗りで、中々改心出来る人民が世界に無いぞよ。」

つい吾々は過去の経験から自分は偉い者、いっぱしの人間と思いがちです。特に成功者ほどそうです。人

と人との関係ではそうかも知れませんが、大本の中では表面は人と人との関係に見えて、実際には霊的に

捉えるべきで、神と人との関係です。その事を決して忘れない様にしたいものです。

 大本に起こることは全て型という考えがなかなか理解出来ていないようです。四代様は常に「小さくと

も善い型を出すよう」にと御注意されています。信徒連合会にいて自分の行動(大本での型)が日本に、

そして世界に起こるとすれば、上に立つ人程言動に注意しなければなりません。いま、自分達の取る行動

が善かれ悪しかれ型となるとすれば、善い型を出す方に回りたい物です。しかし、どちらに回るかは因縁

性来によるものでしょうが。


第16巻第8章「衣懸松」、9章「法螺の貝」、10章「白狐の出現」を拝読。

第8章「衣懸松」では鬼武彦によって岩窟の入口を大岩で塞がれた高姫、青彦はかろうじて這い出ます。 

「わたしは今迄、あなたの教は、三五教以上だ、変性女子の御霊をトコトン懲しめ、部下の奴等を一人も

残らずラナイ教の擒に致し、善に導き助けてやらうと思つて居たのに、これや又大変な当違ひ、善か悪か、

あなたの本心が聞きたい』


高姫『善に見せて悪を働く神もあれば、悪に見せて善を働く神もある。善悪邪正の分らぬ様な事で、能う

今迄妾に随いて来た、………愛想が尽きた身魂ぢやなア、ホヽヽホーホ』

青彦は高姫の言動に、果たしてウラナイ教が善か悪かの判断が付かなくなってしまします。

 また、高姫は「信仰は恋慕の心と同じ事だ、男女間の恋愛を極度に拡大し、宇宙大に拡めたのが信仰だ。

恋に上下美醜善悪の隔ては無い、宜いか、分かりましたか」まさに信仰は神との恋愛関係が理想なのでしょ

う。宗教はアヘンと言われようが恍惚とした気持に成れれば一番良いのですが、つい理性が立ってそうした

気持になれないのでは。


その他、平成25年6月20日の富山教室の教室レポート(106)を参照されたい。


第9章  法螺の貝

場面変わって大江山の本城に、鬼彦、鬼虎、熊鷹、石熊の四天王が網代の駕籠を舁つがせて意気揚々と帰っ

て来ます。

この四人は白狐の化身でさんざん大法螺を吹き鬼雲彦を煙に巻きます。駕籠を覗くとそこには妻の鬼雲姫や

子供達が無残な姿で出て来ます。


第10章「白狐の出現」

「吾こそは鬼彦とは詐り誠は大江山に現はれし白狐の鬼武彦」と言って姿を現します。四天王の四人は既に

三五教の信者となっているので、お前も帰順せよと迫ります。精神錯乱状態になった鬼雲彦は鬼ケ城山方面

さして力限りに遁走しますが。行くてから亀彦一行が宣伝歌を歌ってくるので、しかたなく引き返し本城に

帰り、鬼雲姫と共に井戸に落込みます。井戸から助けられた鬼雲彦夫婦は天津祝詞と宣伝歌を聞かされると、

居たたまらず館を捨てて一目散に伊吹山の方面を目蒐けて天の岩船に乗って逃げ出します。

                                                以上阿良田記

次回

金沢高岡合同教室 1月13日(水) 高岡で、PM6:30 18巻


大阪教室 12月10日(木)  


 前回の続きで、バラモン教副棟梁の鬼熊別と蜈蚣姫の一人娘・小糸姫が、オーストラリアの女王黄竜姫(

おうりょうひめ)となる経緯が述べられます。


第24巻

■第3章「波濤の夢」

小糸姫は船中で従者のチャンキー、モンキーに襲われるが、今子姫ら四人の乗った船に助けられる。今子

姫が三五教の信者で、顕恩郷が既に三五教の霊場となったことを知り小糸姫は驚くが、多勢に無勢と観念し

提携を申し出る。五十子姫、梅子姫、宇豆姫も同意、従者を蘇生させ、セイロンへ帰す。


■第4章「一島の女王」

と思ったのは小糸姫の夢であった。船は嵐に遭って海中の岩にぶつかり粉々に。岩壁に食らいついて経文

を上げていると、今子姫ら四人の船が近づいてきて救助された。島をまだ見ぬうちから竜宮島の女王を自任

する小糸姫を見て、五十子姫・梅子姫はその剛胆不敵さに驚き、小糸姫を教育して竜宮島に三五教を宣布し

ようと目論む。小糸姫は竜宮島に上陸するとブランジー(高山彦)、クロンバー(黒姫)を心服させ、女王

となって黄竜姫と改名し、高原の霊域を地恩郷と命名、三五教を四方に宣伝した。


 今回は普段より1時間早く、午後6時より開催。8時から近くのお店で忘年会を行いました。風邪の流行もあ

って予定より参加者は少なめでしたが、いつもの勉強会後の懇親会(喫茶店)では出ないような濃い話も飛

び出し、和気あいあいの面白い忘年会になりました。

 来年初回は1月14日(木)午後7時から。蜈蚣姫・高姫一行の話に戻り、琉球、台湾、フィリピンを越えてア

ンボイナに至る道中、幾度となく神の試練にあう物語。第24巻5章から読み進めます。初めての方もお気軽に。

              
                                                         (長谷川記



高岡教室 12月17日(木)  


 

愛善世界誌12月号に掲載された霊界物語  第49巻第1章「地上天国」を拝読。

 宇宙の創造神(皇大神・天之御中主大神)は幽の幽から顕の顕に存在する天地の万有一切を「愛の善(天国

)と信の真(霊国)」によって創造されました。  それで、この神様を奉斎する宮殿を地上の天国といい、大

神の仁慈と智慧の教を宣べ伝える聖場を地上の霊国といいます。それで、大本神諭にいう綾の聖地を地の高天

原と名付けられたのです。

 地上に生まれた人間はそこで発育する肉体を宿とする精霊で、環境に適応した性質をもたせ、徳を以て感化

し、すぐれた人間をつくるよう育てられるべきです。従って高天原の真の密意をつきつめるならば、三段に分

かれた最奥第一の天国や中間天国、下層天国も、さらに霊国もすべてが地上に実在すのです。

天人とは人間の極めて純粋な霊身(霊的身体=霊魂)で、人間は地上に住む以上、天国(霊)と地獄(体)と

の両方に存在る一種の機関(働きを持った存在=活動体)なのです。

人間と天人が同様に持っているものは内分(心の姿)即ち、天界の影像(姿)で愛と信の徳に居る限り、人間

はいわゆる高天原の中の小天国と同じです。そして人間だけにあるのが外分(世間的姿)です。

 初発の大本神諭に「十里四方は宮の内、福知山舞鶴外囲い、末で都と致すぞよ」と書かれています。文面だ

けで捉えるなら福知山や舞鶴までが一体となった都になると受け取れます。しかし、綾部は因縁の地で昔のエ

ルサレムに比定され地形的位置が重要なのです。この十里(40km)四方というのは単なる距離を示している

のではありません。綾部が創造神が御鎮まりになる地の高天原であることを示しているので、聖地に隣接する

地名を借りて世界の中心となる綾部を観念的に示されたのです。

 霊界は想念(思い)の世界で、現界では敷地が一坪や二坪の小さな神社も、霊界で見ると想念の拡がりによ

って数百里の際限なく、聖く麗しく、かつ広く高い神社に感じられるのです。

大古の神人は「直接大神の内流を受け、よく宇宙の真相を知っており、一切を神に帰し、神のまにまに生涯を

楽しく送って」いたのです。しかし、現代人は暗黒無明の泥海世界で神から最も遠く離れ、何れも人の内分は

外部に向い、神に背いて、地獄に向かっているので神の教が眼に見えず耳に入らないのです。」

 人間の胸中(内分)が高天原と同じ状態であれば、その本人の行為の全般から小さな行為にまで天界と同じ

情態である事を知っておかなければなりません。それは本田親徳の著した『道の大原』にも「大精神の体」即

ち真神(宇宙)の体は至大無外、至小無内(ギュと詰まってしかも無限であると言うこと)と言っている理由

です。

人間は愛があるから人間である理由は、現界ではその人の人格と関係します。それは各人の主とする愛は想念

と行為の最も細かい部分にまで関係し、天界では大神に対する愛を以て全てとし、高天原では、大神を全ての

中の唯一のものとしてこれを愛し且つ尊敬するからです。大神の愛は高天原全体にも、個々の天人にも流れ込

み、そこに影像(姿)を止められるので、大神の行かれる所が全て高天原となるのです。この事を人間の側か

ら言えば、想念により神を心の中に思うことでどんな場所にいても高天原(神)と結びつくのです。

聖地である綾部の大本は大きな組織の高天原で、その分所支部は聖地に次ぐ一個の天界の団体であり又、自己

の内分(心)に天国を開いている信徒は、小なる形の高天原であることは勿論です。だから霊界に於けるすべ

ての団体は、愛善の徳と信真の光と、智慧証覚の度合いによつて、同気相求という相応の理により、各宗教ご

とに一個の天国団体が形成されるのです。

 大神人(高天原)の一部である神の信者が自愛心に捉われていては、一見神に従うように見えて、その内分

は神を愛せず、神に反き、自愛の為の信仰で、いわゆる虚偽と悪との捕虜となったものです。この様な信仰の

情態(心のありさま)は神から離れて、中有界の人間が、第一天国に上って、その方向がわからず、天人を見

るどころか目を眩し胸苦しさに喜んで地獄界へ向かって逃て行く様なものです。

 大本神諭に示されているように、神の救いの綱に引かれて大本に来ながら偽善の度合いが余り深いため、心

の眼が塞がって霊的に神様のおいでになっている方向を見失っている。霊的眼が塞がっているので体的眼での

み見ようとするため、その奥にある真実が見えず神人(ここでは開祖や聖師)の言説や行為を批判しようとす

る偽善者が居るので迷惑だとあります。現界では同じ殿堂に集まって神を拝み、お話を聞いていても、外から

は行儀よく列んで居る様に見えるが、その想いの世界(心の中)に入つて観察すれば、即ち霊界における、各

人が籍を置く団体の位置から神を拝んでおり、話しを聴く人の想念の状態は違っており、人によって神の福音

と捉える人もあり、寄席の落語や浪花節とも感じ、中有界にさ迷う偽善者の耳には不謹慎なる物語で、決して

神の言葉とは聞こえません。地獄に籍を置く者にとっては聞くに堪えず逃げ帰るのです。


第18巻第11章「相見互」を拝読。

乞食のように落ちぶれた板公、滝公は三日も食事を取らず観音峠までやって来ます。そこには鬼ヶ城山の言霊

戦の後ここに来た常彦が休んでいます。元は同じウラナイ教の信者、黒姫に愛想を尽かしおん出た彼等は同じ

境遇。そこへ荒鷹、鬼鷹も加わりそれぞれがハッキリとした目的はないままに、「何事も神様のお仕組だらう

」と神の御綱に引かれて、そこを立って行きます。

「あいみたがい」は一般に、相身互と書きますが、ここでは相見互と「み」の字が違います。この二組の人達

はある意味同じような境遇(相身互)であるが、しかし行く方向(神務)はそれぞれでる。

                                         以上阿良田記

次回

平成28年1月13日(水)金沢、高岡合同 午後6時30分より 



矢上教室 12月21日(月)  


 島根県邑南町にて午後8時から行われました矢上教室では、現在第39巻の中盤を進んでいます。

 第36巻までの「海洋万里」篇までは、日本・綾部の聖地を策源地として世界的に経綸が進められてきました

が、第39巻からはいよいよ八頭八尾の大蛇の憑依する大黒主を調伏するため、神素盞嗚大神が続々と宣伝使を

月の国(インド)に送られていきます。

 第一陣の黄金姫(蜈蚣姫)と清照姫(小糸姫)は行く手を妨げるバラモン勢を蹴散らし、第二陣の照国別一

行は、そのバラモン勢を救いながら進んで行くなかで、彼らが大黒主に従った事情が明らかになっていきます。

読んでいく中で高宮姫時代の高姫の話が出て来ましたので、国祖神政時代の常世彦・常世姫から高姫の両親

であるウラル彦・ウラル姫の話、香具耶彦との逃避行、東助との関係など、高姫を軸としてこれまでのストー

リーを面白く振り返りました。

今回は12章から15章まで読み進めました。次回は照国別の宣伝使(梅彦)の危難と両親との対面、そして神

軍と魔軍との本格的な戦いへと進んで行きます。

                                                              (亀


八重洲教室 12月26日(土)  


 冒頭では昭和10年12月8日に始まった第2次大本教事件の弾圧の模様から昭和20年の事件解決に至り

現在は12月8日を新生祭としている話を聞いた。また霊界物語の筆録者でもあった高木鉄男氏は弾圧の拷問

が原因で昇天したが、それを知った2代教主出口すみの手紙を見せてもらった。


第37巻  第一四章 夜の山路  第一五章 盲目鳥  第一六章 四郎狸  第一七章 狐の尾  

      第一八章 奥野操  第一九章 逆襲

 大阪布教に失敗した王仁三郎聖師は帰国の折に六地蔵に祈る石田小末と遭遇する。後に失明した石田小末は

聖師を訪れて眼病が治り、優秀な神主となって行く。

 狸や狐憑きの話のオンパレードで聖師の幽斎修業時代の失敗や苦労がいやとい言うほど知らされる。 

  
                

                                                      桜井道彦記