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教室レポート(135)        2015











大阪教室 11月12日(木)  


 今回で大阪教室は再開から丸一年を迎えました。京橋で開催していた頃に参加されていた方も出席され、

章ごとに交わされる感想や雑談も、明るくほのぼのとした雰囲気がますます出ております。

 今回から第24巻に入りました。第23巻の終わりで、バラモン教の副棟梁夫人・蜈蚣姫(むかでひめ)は、

娘の小糸姫が家出して今は竜宮島(オーストラリア)の女王となっていると聞き、捜しに行こうとするとき

に、高姫は同情を装って同行し、玉探しに利用しようとする様が描かれています。24巻の初めは、そこに到

るまでの小糸姫と恋人・友彦との馴れ初め、シロの島(セイロン島)への逃避行、そして小糸姫が友彦に愛

想を尽かして出奔するお話しが述べられていきます。


■第1章「粉骨砕身」

バラモン教の宣伝使・友彦は、副棟梁・鬼熊別の後継になる野心を持っていた。鬼熊別・蜈蚣姫夫妻の愛

娘・小糸姫がエデン川に落ち溺れるのを、友彦は得意の水練をいかして救助。教主兼棟梁の鬼雲彦の演説を

利用し、自分の功績を売り込む。


■第2章「唖呍」

友彦は鬼熊別の内事係として仕えるうち、15歳の小糸姫は友彦を恋慕するようになる。バラモン教の実権

を握らんと野心に燃える友彦は、蜈蚣姫を介して鬼熊別に、自分を小糸姫の夫とし、後継者とするよう運動

を開始。しかし鬼熊別は友彦の下劣なる品性と野卑なる面貌に心を痛め、不適任として聞き流す。友彦は小

糸姫に別れを切り出すが、姫は承服しない。そして二人はメソポタミアの顕恩郷を駆け落ちし、フサの国(

イラン)を放浪、バラモン教の教勢強き月の国(印度)を脱してシロの島(セイロン島)へ。そのうち友彦

のメッキがはげ、小糸姫は百年の恋も冷めて愛想を尽かし、書置きを残し財産をもって船に乗り家出した。

友彦はこれを追って無一文のまま船を出させ、月の国へ渡る。


 次回は12月10日(木)、第24巻3章から。小糸姫が三五教の宣伝使と出会い、竜宮島の女王・黄竜姫(おう

りょうひめ)となる物語です。

いつもより1時間早めて午後6時から開始し、引き続き忘年会として懇親を深めたいと思います。途中から

のご参加でも結構です。初めての方もご遠慮なくご参加下さい。


                                                      (長谷川記


金沢教室 11月16日(月)  


金沢、高岡共通

 愛善世界誌11月号に掲載された霊界物語  第3巻第23章「鶴の一声」を拝読。

国魂神(八王神)の磐玉彦は己の治める崑崙山一帯がいたって穏やかに治まって居るのは神の大御恵によるの

で自分は八王神という聖職に就いていても何の役目も果たさず無用の長物であって、慙愧(恥じ入ること)に

堪えない(「日夜無事に苦しみつつ高位にあるは、天地に対し何ンとなく心愧かしさに堪へず」という気持)

。したがって自分は野に下って『神業を楽まむ』(ただの人となって、朝夕神を祈り、晴耕雨読の生活を送り

たい)といいます。

驚いた八頭神大島彦は懸命に止めようとしますが、磐玉彦の決心は固く聞き入れようとはしません。

そこで自分一人では判断できないので地の高天原に行って裁断を請うからしばらく待ってくれるようにと云っ

て、天の磐船に乗り竜宮城に行き、大八洲彦命に面会し事情を話します。

大八洲彦命は、すぐさま地の高天原の大宮に行き、国直姫命(天使長)に面会し神勅の降下を願い出ます。そ

こで国直姫命は衣服を更め、身体を清めて大神殿に進み国常立命に神勅を乞います。

その答えが

『磐玉彦は遠い神代からの御魂の因縁によって、崑崙山の八王神の聖職を授かったのは 神界の一定不変の経

綸で動かす事の出来ないことである。主君は永久に主君であり、臣下もまた永遠に臣下でなくてならない。王

が臣下となり、あるいは賤しい地位に降り、家来がたちまち王の位に進むようでは、天地の真理に違反し、し

かも大神の御神慮を無視するものだ。一度出た神勅はふたたびこれを変られない。神の一言は日月のように明

確で少しも逆らってはいけない。かつ名位(名誉と位)は神によって与えられる正しい慾(望み)で、長者(

貴人)として欠せない栄誉である。

磐玉彦はどうしてこのような明瞭な問題を提起して、大神の御心を悩ませるのだ。人は生きるのも死ぬのもみ

な大神の御心のままである。すみやかに反省し神の御心を悟って、神勅のまま、八王神の聖職に奉仕し、今後

ふたたびこうした問題を起こして神慮を煩はすことがないように』  との厳しい命令でした。

*長い年月、世が太平に治っているのは磐玉彦の神德によるもので、神を好く祀り野心無く、下を憐み、善政

を布いているからです。しかし本人はそうは思わず、自分が居ても居なくてもよく、ただ高い地位にいること

が罪悪に感じられたのです。

  しかし神様の眼から見ると、八王神に任命したのは古い神代からの経綸で、御魂の因縁(前世から定まった

運命。宿命)によって崑崙山の八王神になっているのです。いわば人は生まれながらにしてその役目を担って

いるのです。

*『君は万古君たるべく、臣はまた万古末代臣たるべし』は人の霊魂は大きくは上中下の三段に分かれており

、犯すことの出来ないものです。従って君となり臣となるのは必然的に決まっているのです。その順序を変え

ては世の中は治まりません。しかし現代はそれが逆転し、下に在るべき身魂が上に昇っている時代で、神を忘

れ蔑ろにしている時代です。大本神諭はその事を厳しく戒めており、艮の金神の御出現は世界を在るべき姿(

神代の昔)に戻すためのものです。

*『神勅一度出てはふたたびこれを更改(改めかえる)すべからず』は、神が一度出された神勅はそれが不都

合だと思っても決して変えないということです。

霊界物語第一巻「発端」に

 『されど神明には、毫末の依怙なく、逆行的神業なし。一度手を降したる神業は昨日の今日たり難きがごと

く、弓をはなれたる矢の中途に還りきたらざるごとく、ふたたび之を更改するは、天地自然の経緯に背反す。

ゆゑに神代一代は、これを革正すること能はざるところに儼然たる神の権威をともなふのである。また一度出

でたる神勅も、これを更改すべからず。神にしてしばしばその神勅を更改し給ふごときことありとせば、宇宙

の秩序はここに全く紊乱し、つひには自由放漫の端を開くをもつてである。古の諺にも『武士の言葉に二言な

し』といふ。いはんや、宇宙の大主宰たる、神明においてをやである。神諭にも、

『時節には神も叶はぬぞよ。時節を待てば煎豆にも花の咲く時節が参りて、世に落ちてをりた神も、世に出て

働く時節が参りたぞよ。時節ほど恐いものの結構なものは無いぞよ、云々』

と示されたるがごとく、天地の神明も『時』の力のみは、いかんとも為したまふことはできないのである。』

神様のお経綸(しぐみ)は長い長い時を掛けてのお仕組で、一見矛盾や誤りに見えるが、何れは完成するので

す。

国魂は

八王八頭神 {世界各地の国魂の神を八王、その宰相神を八頭といい、国祖から任命された聖職}【1/18】

ここに国治立命は、シオン山に鎮祭せる十二個の玉を大地の各所(主に山)に配置し、これを国魂の神(八王

神)となし、八頭神(宰相の神)を任命さるることとなりたり。【3/1】神々の任命

*国魂の神 {一般に神道では国玉神、国霊神とも呼び、国土そのものの霊格の存在を信じ、これを国魂神と

称する。「延喜式神名帳」にも全国十七ヶ国にわたって載せられている。}


金沢教室 11月16日

第16巻第6章「石槍の雨」7章「空籠」を拝読。

この6章「石槍の雨」は重要な箇所です。

『神素蓋鳴大神、国武彦命其他三人は、桶伏山の蓮華台上に登らせ給い、天神地祇八百万の神を神集へに集へ

給へば、命の清き言霊に先を争ひ寄り来る百の神等、処狭きまで集まりて、皇大神の出でましを、祝ひ寿ぐ有

様は、蓮花の一時に、開き初めたる如くなり。

神素蓋鳴大神は、国武彦命に何事か、密に依さし給ひ、ミロク神政の暁迄三十五万年の其後に再会を約し、忽

ち来る丹頂の鶴にヒラリと跨り、中空高く東を指して飛び去り給ふ。国武彦命は亀彦を始め、英子姫、悦子姫

に何事か囁き乍ら万司に向ひ厳格なる神示を与へ、茲に別れて只一柱、四王の峰の彼方に雄々しき姿を隠した

まひける。』

とあるように九月八日の朝、由良の港を船で由良川を遡り、本宮山の下(味方平)に着かれ蓮華台上に登られ

ます。

そこで神素蓋鳴大神は国武彦命に何かをお命じになり、三十五万年後のミロク神政の時点での再会を約束され

、丹頂の鶴に乗って帰られます。神素蓋鳴大神と国武彦命の間にどんな御話があったのかは神界の秘密で、こ

こには書けないとあります。神界の重要な秘密とはいえ、尻尾だけ見せられたのでは聞く側にとっては「何だ

か拍子の抜けたやうな心いぶせき(イライラする)物語」だといっています。これが総説歌の九月八日です。

                                         阿良田記


次回

12月7日(月)午後1時30分


高岡教室 11月19日(木)  


第18巻第10章「赤面黒面」を拝読

黒姫が語る言葉は創生期の大本の状況であり、開祖と聖師、福島久(高姫)と聖師や二代、三代様の関係が能

く判る。

2013年の教室レポート(106)、青梅教室 6月24日(月) を参照されたい。三輪さんが明確に書かれている。


紫姫が『ウラナイ教には、ちツとも……仰有る通り裏がないので御座いますか』と聞けば

黒姫は『勿論の事、見えた向きの、正真正銘、併し乍ら、神様のお仕組は奥が深いからなア、一寸やそつとに

、人間の理屈位では分りませぬ。・・・・』と答えています。

この文章一見ウラナイ教には裏がないと云っているようだが、一枚の紙にも裏表があるように、物には必ず表

裏が存在する。「見えた向き」は正面から見たと云うことであろう。確かに真正面から見ればどんな物も裏は

見えない。また、奥が深いと云うことは即ち裏があると云うことである。 板公が「権謀術数的手段は用ゐる

な。併し俺の知らぬ所では都合よく行れ、勝手たるべし」と云ふ、あなたの御精神でせう』といっている。こ

れが正しくウラナイ教の裏なのでは。

そして、腹に一物在るのか、紫姫は黒姫に加担して、滝公と板公を追い出す。

                                       以上阿良田記


次回

 12月17日(木)午後7時より

 1月は金沢・富山合同教室 1月13日(水) 午後6時30分より高岡で



八重洲教室 11月28日(土)  



第37巻  第七章 五万円  第八章 梟の宵企  第九章 牛の糞  第一〇章 矢田の滝  

      第一一章 松の嵐  第一二章 邪神憑  第一三章 煙の都  

 幽斎修業の模様が細かく述べられているのであるが、小判がいけてあると言われて掘りにいったが何も出てこ

なかったり、財布が落ちていると言われて探しに行ったが牛の糞であったり、さんざんな目に遭って行く。

 ひとたび御神徳の評判が立てば飯綱使いと罵られたり、金目当ての侠客にからまれたり、邪神の神慿りのこと

など一筋縄ではいかなかった様が印象深い。

 大阪への布教を試みるのであるが、効なく帰ろうとした時に天満天神の境内で易者にこれから十年の艱難辛苦

を予言されるのであった。

             

                                                      桜井道彦記