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教室レポート(131)        2015










大阪教室 7月9日(木)  


今回はペースを少し上げて、第23巻第2篇「恩愛の涙」を通して読みました。


■5章「親子奇遇」/秋彦(馬公)と駒彦(鹿公)の宣伝使は、日高山の竜神の祠で禁断の柿を食う。翌朝、

二人は鬼婆と見える老婆と対面、駒彦が名を明かすと老婆は家へ誘う。駒彦が老夫婦(常楠とお久)の子で

あったことが判明し、涙の対面となる。

■6章「神異」/竜神の怒りを恐れる酋長木山彦は、柿を食った二人を人身御供にしようとする。二人は高倉

・旭の白狐の身代わりで逃れる。秋彦は木山彦の子であったことが判明する。

■7章「知らぬが仏」/常楠の娘の仇・虻公と蜂公が常楠夫婦に迫る。駒彦と秋彦が駆けつけ霊縛を施して改

心させる。虻・蜂の話から、虻公は常楠が昔捨てた子、蜂公はお久が昔捨てた子であることが判明した。

■8章「縺れ髪」/木山彦夫婦は息子会いたさに水行。神人現れ天則違反の罪を自白せよという。二人はそれ

ぞれ結婚前の捨て子を自白。そこに常楠ら現れ、女神から真相が告げられる。駒彦は常楠とお久の子、秋彦は

木山彦とお久の子、虻公は常楠と木山姫の子、蜂公は木山彦とお久の子。信仰の力で罪が許され対面となる。



捨て子だらけの状況に驚き呆れるばかりですが、神代に限らず19世紀までは日本でも多くありました。江戸時

代の「生類憐れみの令」は動物だけでなく病人や捨て子を禁じており、捨てられていた場での養育が義務づけ

られました。明治中期から近代的家族モデルが浸透したことで捨て子が休息に減少したようです。

個々の登場人物が幾多の困難を経験して霊的に向上し、親に対する子の、子に対する親の愛情が発揮され、

罪が許されることによって初めて神の導きにより対面が許された、という場面でありました。


初めてご参加の方もあり、また恒例のR氏による宣伝歌弾き語りもあって、一段と楽しい勉強会となりまし

た。

来月は8月13日(木)で、第23巻9章からとなります。お盆入りでお忙しいことと思いますが、お時間の合う

方はぜひ覗いてみて下さい。

                                                          (長谷川記
                    


富山・高岡教室 7月16日(木)  


愛善世界5月号掲載の霊界物語第36巻第12章「無住居士」を拝読。

 セイロン島(現スリランカ)での話しです。大自在天大国彦の孫に当たるサガレン王は、ウラル教の竜雲によ

って城を奪われ岩窟に隠れ住んでいるところへ無住居士が突然現れます。


 テーリスが自分達の計画が成功するか教えてくれと言います。それに対して無住居士は『お前達は心の置き所

が違つてゐる。サガレン王に忠義の為に心身を用ゐるは、実に臣下として感ずるの至りである。が、併し乍ら、

サガレン王以上の尊き方のある事は知つて御座るか。』と問かけます。本来三五教の信者であるが処世上バラモ

ン教に入り、王に忠誠を誓っている二人は意味が分かりません。

無道居士は何れの宗教を信じようが誠の道に変りはないといいます。しかし、王を大事に思う心以上に

 『至上至尊の神さまの為に、なぜ真心を尽さないのか。神第一といふ教の真諦を忘れたのか。左様な心掛で

は何程千慮万苦をなすとも到底駄目だ。神の御力にすがり奉りて、サガレン王を助けむとする心にならば、彼

の竜雲如き曲者は、物の数でもあるまい。誠の神力さへ備はらば、竜雲如きは日向に氷をさらした如く、自然

の力に依りて自滅するは当然の帰結である。』と諭します。

 大本の教は『神第一主義』が教の真諦(絶対不変の真理)です。絶対の神に全てを任せれば何の問題も生じま

せん。神に祈り、真心を尽くせば、たとえ思っていたとは違った方向に進んでも、最終の結果は自ずと善い方に

現れてきます。ここで言う『自然の力』は神のお力で、問題は日向に氷が溶けるように解決するのです。

全てを神に任せると言うことは、全知全能の神の力を身に備えるということです。

 『無限絶対の神の力に依り、汝が霊魂の上に真の神力備はらば、一人の霊を以て一国の霊に対し又は億兆無

数の霊に対しても恐るる事はなき筈、又霊力さへ完全に備はらば、汝一人の力を以て億兆無数の力に対し、又

汝一人の体を以て億兆無数の体に対抗し、よく其目的を貫徹する事を得るであらう』  と言っています。

 神に帰依(全身全霊をもって依存する)すれはどんなものも恐れることはないのです。

 では、それはどうしたら出来るかと言えば『別に竜雲の如き悪魔を言向和すに就いては議論もヘチマもあつた

ものでない。只汝が心にひそむ執着心と驕慢心と自負心を脱却し、只々惟神の正道に立返りなばそれで十分だ。

一つの計画も何も要つたものでない。』のです。

執着心: 特定の物事に執着する気持ち、強い拘り

驕慢心: うぬぼれて人を見くだす心

自負心: 自分の才能・知識・業績などに自信と誇りを持つ心

現代はどちらかと言えば、驕慢心は別として、一般には 拘りと自負心 を持てと教えられてきました。特にスポ

ーツ選手は強く教えられて来たように思います。しかしここでは捨てるよう言っています。それはこの三つがあ

っては神に帰依する心は生まれて来ないからです。そして驕慢心も自負心もみな究極は物への執着によるもので

す。ただ誤解してほしくないのはどんな時でも必要ないと言っているのではありません、それに固守することが

間違いなのです。


無住居士が帰った後、彼等は以下のように気づきます。

第一三章 「恵の花」にそれが出て来ます。

 『幼年の頃より無抵抗主義の三五教の道を聞きながら、神の大御心を忘却し、暴に対するに暴をもつて

し、悪魔の憑依せる竜雲を討伐せむとしたる吾心の愚さよ、否無残さや。兵は所謂凶器である。先頃も一

挙にして彼竜雲を討伐せむとし、数多の部下に武装を凝らさせ、神地城(サガレン王の居城)の表門より

闖入し、敵を打ち悩まさむとして却て味方を傷つけ殺したる事、返す返すも迂愚(おろか)の骨頂、拙(

まずいこと)の拙なるもの、悔いても及ばぬ殺生をしたものだ。』

《アメリカのベトナムやアフガン、イラク戦争は平和をもたらすどころか反って貧困と無秩序を生み、ついには

現在のイスラム国の様な悪を招いたのです。とは言えこれも神のお経綸でしょうか》


 『つらつら考ふれば、天の下には敵もなければ味方もなし。総ての敵は皆吾々の心より発生し、次第に

成長して遂には吾身を亡ぼすに至るものである。心に慈悲の日月輝き渡る時は、天地清明にして一点の暗

雲もなければ混濁もない。凡て敵と云ひ味方と云ふも、心の迷ひから生ずるのだ』

《この心の迷いはさきほどの「強い拘り」即ち執着心です》

また、

 『如何に竜雲暴悪非道なりとは雖も、此方より大慈大悲の至誠をもつて彼に当らむか、必ずやその仁慈

の鞭に打たれて、心の底より王に服ひまつり、今迄の罪を謝し忠実なる臣下となりて仕ふるは決して難事

ではない。吾々にして彼竜雲如き悪人を言向け和し、悔悟せしむる事を得ずとすれば、これ全く誠の足ら

ざるものである。如何なる悪魔といへども、大慈大悲の大神の御心を奉戴し、至誠至実を旨とし打ち向ふ

時は、必ずや喜び勇んで、感謝とともに従ひまつるは、火を睹るよりも明かならむ。先づ先づ武術を思ひ

止まり、一刻も早く魂を磨けよ』

《どんな悪魔も神の心である凡てを愛する大慈大悲の心で臨めば必ずやそれに応えて、従ってくるもので

す》

 

本日安保関連法案が衆議院を通過した。物語の前に皆さんとお話をする。今回の安倍政権と自公の暴挙で感じた

ことは、日本のこれからの平和は国が守ってくれるのではなく国民一人一人が自分達自身の意志で守らなくては

いけないことに多くの国民が気付かされたのではないでしょうか。選挙に無関心な結果が今回の事を生んだ一因

で、まず自分の意思を明確にし、行動していかなければいけないのでしょう。

第18巻第4章「四尾山」を拝読。

前半はこれまでの経過が宣伝歌で示されている。弥仙山から帰った悦子姫達は世継王山の麓にささやかな家を作

ります。そこへ夜分に、悦子姫に鎮魂で呼び寄せられた紫姫、青彦、馬公、鹿公の四人が尋ねてきます。待ち構

えていた悦子姫は男の連中を屋外に出し、紫姫と二人切りで密談をし、今後のことを指示します。夜が明けると

夏彦と加米彦を残し悦子姫と音彦。紫姫一行と二手に分かれ、それぞれの神業に向かって出発します。


金沢教室都合により休講

                                          以上阿良田記

次回   金沢8月17日(月)午後1時30分より 第15巻

     富山8月20日(木)午後7時  第18巻