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教室レポート(129)        2015










大阪教室 5月14日(木)  


 今回から第23巻に入りました。その第23巻の舞台となる近畿地方の鳥瞰地図をご参加の方が作ってきて下

さいまして、その出来にみなさん感心しきりでありました。大いに参考にさせていただきます。

 序文に、「またしても高姫物語かと、読者の飽き玉ふとは知り乍(なが)ら…」とありますが、高姫さん

破茶滅茶ぶりも霊界物語の面白さの一つであります。しかし22巻後半で大改心をしたはずの高姫なのですが

…、『大本神諭』にいう「発根(ほっごん)の改心」というのはなかなか難しいということなのでしょう。


■第1章「玉の露」

 三五教の宣伝使・国依別と玉治別が、大台ヶ原の峰続き・日の出ヶ岳より流れ出る谷の絶景を眺めて休息

していると、高姫の部下・魔我彦と竹彦が近寄ってきた。魔我彦と竹彦は高姫の邪魔となる国依別と玉治別

を除こうと考え、油断していた二人を千仞の谷へ突き落とす。その夜、青白い火が周囲を飛び回り、魔我彦

は恐怖に卒倒する。

 一方、国依別と玉治別は岩に衝突することなくドブンと青淵に落ち込み、そこで修行をしていた杢助に助

けられた。二人は犯人について杢助に語らなかったが、こんな非常手段をとるとは何かよほど深い計略があ

ると見て、杢助とともに那智・普陀落山麓の若彦の館へ向かった。

■第2章「副守囁」

 魔我彦と竹彦は若彦に面会し、若彦の妻・玉能姫が聖地で言依別命に○○されただの、言依別命が教主を

罷免され高姫に神政が委任されただの、若彦を総務にするから聖地に帰ってこいだのと、出鱈目を言うが、

若彦は神界に仕えておられる方(言依別命)に絶対服従しているとして、全く動揺しなかった。その問答の

中で竹彦が神懸かりし、魔我彦とともに国依別・玉治別を突き落としたことを明かしてしまう。

 そこに3人の来客が告げられ、魔我彦は国依別たちではないかと恐れおののく。若彦は5人の荒男を呼んで

魔我彦と竹彦を見張らせ、客人の応対に出る。


 輪読と座談の後、定番となった宣伝歌のウクレレ弾き語りが披露されました。今回は「月光世に出づ」が

パッヘルベルのカノン、「最後の光明」が桑田佳祐の「月」の節で歌われるなど、大いに盛り上がりました。

                                                       (長谷川記)
 



高岡教室 5月21日(木)  


金沢、高岡共通

愛善世界5月号掲載の霊界物語第65巻第総説「芸術と宗教」を拝読。

1、芸術と信仰は親子兄弟や夫婦のようにどちらも至情(まごころ)に根底をおいている。そして矛盾と憂

いの多い人生の旅路において、また地獄のような苦悶の生活から、天国浄土の生活に旅立たせてくれる案内

者である。左手を芸術に曳かせ、右手を宗教に委ねて行けば、どんなに淋しく味気ない世の中でも、人生に

とって掛け替えのない味わいを抱かせてくれる。

2、芸術も宗教も共に人生の導師である点では一致している。

芸術は美の門から人を天国に導き、形、色、声、香などという自然界の美を媒介とし、吾々に天国の様を想

像させる。

 一方、宗教は真と善との門より神の御許に到らせる。霊性のもつ内省により神の生命に触れさせるもので

、目に見えない、耳では聞えない、人の心では想像できない霊界の真相を捉えようとするのが宗教の本旨で

ある。

3、芸術の対象は美そのもので、しかも美は神の姿(衣)でその心(身体)では無い。

『神は霊であるから、拝む者もまた霊と真をもって、拝みなさい(マタイ伝4章24節)』と言つたキリスト

の言葉は何時までも変わらない信仰への結論である。 即ち、芸術は神の体であり宗教は霊である。

 美を対象とする芸術は神の御姿を眺め、裳裾に触れることが出来るけれど、決してその心を知り、その霊

と交わり、神と共に居て共に動き、神と共に活きるという心地よい境地に至らせることは出来ない。その温

い胸に抱かれ、その生命の鼓動にまで触れさせることは到底望めない。

4、芸術の極致は、自然界の美しさを愛で楽しむことにより、現実世界の束縛から離れることが出来、夢見

るような、酔ったようなほんの一時逃れである。それは想像の世界で現実の活きた世界ではないから。

 しかし、宗教は自然美ではなく、精神的美の実現である。その憧憬の対象は人間の形体の美さではなくて

人格の美さである。神の心の中にある真と善とを吾が身に具体的な形に現わし、永遠に神と共に活き、動こ

うと望む、霊的な活動の発展が、即ち宗教的生活の真相である。

 芸術家は美を楽しみ、創造に依って一時的な人生の苦しみを忘ることが出来る。そして、人間の創り出す

芸術は死んだようなキャンバスや冷たい大理石を材料とし、その慰めもまた空想の世界より来る軽薄なもの

だ。

 それに引き替え、宗教家は現実世界を浄め、自我の霊能を発揮して、清く気高い人格の優美さを吾が身に

、いきいきと目に見えるように現さなくては止まない。それが宗教家の日夜不断の努力であり、向上精進で

ある。

 宗教は活きた温かい自己の霊性を材料として、神の御姿を己の霊魂中に認めようとする偉大な真の芸術家

である。だから宗教家の悦楽は、一歩々々神の栄光に進み行く永久の活動そのものである。その生命ある限

り、悦びは継続し、その慰安は実在する神の世界より来るものである。

5、ここで言う芸術は人間が作り出す形体上に現れる一時的の悦びでなく、真の芸術とは生命があり、活力

がある永遠の悦びである。即ち「人が一時的に得られる安らぎではなく、神が与えられる安らぎで、憂いも

恐れも一切要らないのである」。 美の理想を実現するには、現代人の言う形体の上に現はれる一時的の悦

楽でなく、内面の人格の上に、その生活の上にはっきりと現われ芸術である。真の芸術には生命があり、活

力があり、永遠無窮の悦楽あるものでなくてはならない。

6、聖師様がかって「芸術は宗教の母なり」と言ったのは社会一般に言う芸術ではない。神の偉大な造化の

力によって生まれる、神の芸術的産物である自然の造形をいうのである。それが神と共に悦び、生き、動こ

うとするのが真の宗教である。

 霊界物語を口述されたのは真の芸術と宗教とを一致させ、両者に完全な生命を与えて、天下の同胞を真の

天国に永久に楽しく遊ばせるための意思よりでたのである。そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の

道筋にあることを覚り、本書を出版するに至ったのである。


月鏡に「宗教より芸術へ」と題した一文があります。

 『私はかつて、芸術は宗教の母なりと謂つた事がある。併しその芸術と云ふのは、今日の社会に行はるる

如きものを謂つたのでは無い。造化の偉大なる力によつて造られたる、天地間の森羅万象を含む神の大芸術

を云ふのである。私は子たる宗教を育てんが為めに、永年微力をつくしたが、子はどうやら育ち上つたらし

いので、この方面は子に譲り、昭和三年三月三日から、親たる芸術を育てんと努力しつつあるのである。明

光社を設けて、歌道を奨励し、大衆芸術たる冠句を高調し、絵を描き文字を書き、楽焼をなし、時に高座に

上つて浄瑠璃を語り、盆踊の音頭をさへも自らとつて居るのである。神の真の芸術を斯土の上に樹立するこ

とが、私の大いなる仕事の一つである。』

この文章は上の「芸術と宗教」から見ると少し矛盾があるように思われる。しかし、神の芸術は天然自然の

造形美であり、我々人間の芸術は美術、音楽、文芸、演劇等を指し、人間社会にあってはこれらの芸術に励

むのも又神に近づく手段である。高額な美術品を集めるだけが美術ではない。

 

高岡教室

霊界物語第17巻16章「城攻」、17章「有終の美」を拝読 

「城攻」では鬼熊別は武器による殲滅作戦を提案するが荒鷹、鬼鷹は白髪異様の神人より「一斉天地を震撼

させ一言風雨雷霆を叱咤する神力」を得たといって、言霊戦を主張します。そこで鬼鷹に全軍の指揮を命じ

ます。

まず加米彦が声も涼しく口火を切ります。次いで、少壮白面の丹州が加米彦の言霊に応戦して白扇を披き宣

伝歌を歌い姿を消します。小男の夏彦が歌い、次いで鹿公は歌い終わって、尻を捲つて一散走りに音彦の戦

陣に向って逃げ来る可笑しさに、悦子姫、音彦、加米彦は可笑しさに吹き出し、笑い転けます。

「有終の美」では常彦の宣伝歌に対し馬公は岩窟の高欄に立ち歌う。攻撃軍の青彦は声淑やかに謡ひ終ると

、荒鷹は青彦に向つて、言霊の砲弾を発射し終わって涙を流し鬼熊別、蜈蚣姫の端坐する高楼に向つて合掌

した。

音彦は言霊の速射砲を差し向けた。鬼鷹は白扇を開いて衝っ立ち上り言霊の応戦を開始し、終わって天地に

向って合掌し嬉し涙に咽びつつ地上にドッと倒れた。鬼熊別の部下達も感激の涙を流し、大地に平伏し涙に

大地を潤した。紫姫も歌い、最後に宣伝使長悦子姫は鬼熊別の館に向つて声を張上げ宣伝歌を送り、謡い終

ると高殿より、火煙が濛々と立ち昇り鬼熊別、蜈蚣姫の二人は高閣に納めてあった天の岩船に飛び乗り東方

の天を目蒐けて一目散に翔り行く。敵も味方も一度に声張上げて、『三五教の宣伝使、万歳々々』と三唱し

た。


金沢教室 5月25日(月)  


霊界物語第15巻第19章「第一天国」、第20章「五十世紀」を拝読

内容の詳細は「教室レポート 100」を参照して下さい。

玉彦は自分の本守護神に向かって『コラコラ本守護神、臍下丹田から出て来て、此の肉の宮を何故保護をせ

ないのか、それでは本守護神の職責が尽せぬでは無いか。』と言っています。現界では肉体がありそこに本

、正、副守護神が居ます。現界に肉体を残して来たはずなのに、天国に来た玉彦には守護神のみかと思った

ら、なんだかもう一つ肉体があるようでこれは何とも不思議です。霊界に入ると精霊と言いますがこの精霊

が一種の肉体でしょうか。なかなか複雑で理解しがたい所があります。

                                          以上阿良田

次回 高岡、金沢合同 会場高岡教室 6月24日(水)午後6時30分より

   出口孝樹先生をお迎えして行います。


四日市教室 5月29日(金)  


 四日市教室は近鉄四日市駅から徒歩5分、「じばさん三重」(三重北勢地域地場産業振興センター)の研修

室にて毎月行われています。(部屋は一階エレベーター前の表示にてご確認下さい。「出口王仁三郎研究会」

の名称です。)

 5月の勉強会は初めての方を加え、10名で行われました。第28巻は台湾を舞台とする物語。ほぼ一巻完結の

お話しですので途中からでも比較的読みやすく、内容もドラマティックでオススメな巻です。横文字の人名が

たくさん出て来ますが、重要人物はそれほど多くありませんので、第1章に出てくる人名を整理するとスムー

ズに理解できると思います。

 今回は第28巻 第13章から輪読しました。


【第13章「唖の対面」】

 カールス王により無実の罪で投獄された真道彦命を救出するため、息子の日楯・月鉾兄弟とユリコ姫は、神

示に従い「球の島」(八重山)サワラの都に照彦王を訪ねる。無言の行のなか王と面会した三人は、八千代姫

・照代姫を加え、常楠仙人の隠棲する向陽山に向けて出発した。


【第14章「二男三女」】

 常楠仙人に会って摂受の剣と折伏の剣を得よとの照彦王の密書に従い、二男三女は常楠の仙術による幾多の

試練を乗り越え、神宝を与えられる。五人は神宝を捧持して台湾・玉藻山の聖地に帰還した。マリヤス姫は祝

意を表して歌い、かつ舞った。


【第15章「願望成就」】

 日楯、月鉾も祝意を表して歌い、かつ舞った。続いて月鉾を慕うテーリン姫は求婚の歌を歌い、月鉾を当惑

させるが、マリヤス姫の決死の決意によって月鉾は結婚を承諾する。


【第16章「盲亀の浮木」】

 真道彦命を疑って投獄させたカールス王と部下たちは、金毛九尾の邪霊の化身セールス姫らの軍によって打

ち破られ、ことごとく投獄されていた。セールス姫一派の軍は玉藻湖にせまり、マリヤス姫の神軍と衝突。神

軍は常楠仙人から授かった神宝の神力によって魔軍勢を無力化し、宣伝歌の言霊によって改心させる。またセ

ールス姫らは悪狐の正体を現わし、煙となって遁走した。

 日楯・月鉾はカールス王を救出、やつれ果てた姿を見て恨みを忘れ、同情の涙を流す。そしてヤーチン姫と

瀕死の真道彦命を救出した。日楯の宣伝歌により、うめき苦しんでいた数万の敵軍勢は一斉に目を開き、心の

底から三五教に帰順した。

                                                            (H記)