+

教室レポート(126)        2015










大阪教室 2月12日(木)  


11月に再開した大阪教室。会場の大阪研修センターは阪急十三駅から至近で、京都・神戸方面からのアク

セスも良いところです。

毎回ご参加の方が、手製のシガーボックスギターで宣伝歌の弾き語りを披露されました。前回の四弦のも

のに続いて今回は三弦の作品で、出口孝樹講師も試し弾きをしてご満悦です。

再開したばかりの大阪教室では、新しく霊界物語に触れられる方も多いため、霊界物語の大筋のストーリ

ーを一枚の紙にまとめたものを刷って、今回からお配りしています。題して「霊界物語を途中から読む方の

ために」。

大正10年のこの日、2月12日は、出口王仁三郎先生が大阪で検挙され、第一次大本事件が勃発しましたが、

図らずも同じ日に大阪で勉強会が行われました。

「言霊」に関する鋭い質問も出て、活気ある大阪教室でした。


さて、今回も第22巻の続きから、摂津国鷹鳥山(高取山)を舞台とする物語を読み進めました。


■第11章「黄金像」

 バラモン教の金助は、肉体を毀損しての難行苦行が神慮に適うとするバラモンの教えが邪教であることを

悟り、三五教の大神に懺悔をすると、金助はにわかに神懸り、鷹鳥山の頂上で黄金像の姿となっていた。バ

ラモン教の一味六人は、金に目がくらんで金助に武者振りつくが、たちまちふるい落とされた。


■第12章「銀行着瀑」

 ふるい落とされた銀公は鷹鳥山の中腹に落ち、三五教の庵に助けられた。敵の掌中にあって身分を偽るが、

玉能姫に見破られ、金助が黄金像になった一件を話す。鷹鳥姫(高姫)と玉能姫は山頂に向かうが、黄金像

は鷹鳥姫を掴んで、「まだ俺の所へ来るのは早い」といって中腹に放り返し、玉能姫は生田の森へ投げられ

た。金助は元の姿に戻り、銀公とともに三五教への改心を表わした。


■第13章「寂光土」

 若彦が金助と銀公に三五教の教理を説いていると、突然二人は人事不省に陥った。そこに中空より鷹鳥姫

が落ちてきてのびてしまった。妻の玉能姫も見あたらず、ひとり不安になった若彦は信仰のタガが弛んでし

まう。折しもバラモン教のスマートボールらが手勢を引き連れ攻め来たった。若彦はわれに返り大神に慢心

を詫びると、空から火弾が落下して爆発。白煙の中、空中から鷹鳥姫に対し「地上に天国を建設せむとせば

、先ず汝の心に天国を建てよ」と女神の声にて神示が下ると、鷹鳥姫は我身の不明を悟り、天地の神霊に一

心不乱に祈った。白煙が晴れると上枝姫ら三人の女神が現われ、鷹鳥姫らを庵の中へ導いた。スマートボー

ルらは身体強直したままそれを眺めていた。そこに何者かの宣伝歌が雷の如く聞こえてきた。


 次回は六歳の初稚姫(大本開祖の前身)が鷹鳥山に現われ、神懸り状態となって三五教の神髄が宣示され

ます。そして巻末にかけて三つの玉の神業はクライマックスへ。とても面白いところです。


                                                        (長谷川記)
             



富山・高岡教室 2月19日(木)  


金沢。高岡共通

愛善世界2月号掲載の霊界物語第22巻 総説(神心)を拝読。

 万物の中でも最も優れた人間の霊は上中下三段に別れている。しかし現代では八岐大蛇などの邪神によっ

て魂が惑わされそれが原因でみたまの位置が逆転している。そして体主霊従、弱肉強食の暗黒界となってい

るのに何とも思わないのは人類が皆邪神の霊魂に感染し切っているからである。

 この世をミロクの世にすべく使命を持って生まれてきた人間が、人間以下の獣の心になってしまったので

、一日も早く目を覚まし誠一つの麻柱の道によって霊魂を研き、神心に立帰らねばならない。

 真心とは天地をお造りになった大神の大精神に合致した清浄心である。どんな事にもびくびくせず、焦慮

らず、物質欲に淡白で、何事も神心を人生の基礎として、人と争わずよく耐え忍んで、宇宙を自分のものと

想い自然の移り変わりを言霊の威力と悟れば神心を高めること出来たのである。


 人は幸福な時も災難の時も油断せず、生き通しであることを自覚して、全てを神の御心に委ね人の行うべ

き道を歩み、利害に心を悩まさず大空のように穏やかに心を保ち、常に時節に応じて天下公共のために善を

思い、善を言い、善を行なうよう心を持たなくてはいけない。広く大きな心で独りよがりにならず、神の代

理者と自覚し、心に欲がなければ永遠の天国が築けるのである。人と接するときは善人や老人を友とし自分

より劣ったものや悪人を蔑まず、精神的にも物質的にも恵を与えて救う事が必要である。物質的に富んでい

るよりむしろ貧しいことに感謝し決して贅沢に走らぬ事。

 時として不幸に見舞われても天命と思って楽しみ受け入れ、日常の生業に励んで怠ることなく、人として

の天職を尽くさなければならない。御神業に奉仕する時も心を広く大きく持って臨み、たとえ善い事と思っ

ても神界の律法に照し合せて悪ければ決してこれを行わず、神の御心に従って一つ々々最善の行動を取り昆

虫といえどもむやみに傷つけず、大きな仁愛の真情を以て万有を守らなくてはいけない。


 わずかな事にうろたえ、忽ち顔色を変へ、体主霊従、利己主義の行動を取るのは、小人の魔の心より来る

のである。内心は頑なで、でたらめな考えをもち、ほんの小さな事に心配で身も心も傷つきながら表面を飾

り、人前ではいかにも剛胆で殊勝らしく見せようとするは小人の好んで行う行為である。

 現代人は魂が生き通しで現界と霊界を行き来することを知らないため神を恐れず、先祖を拝まず、ただ物

質欲に追い立てられている憐れな存在である。永遠の命を知らないため死を恐れ肉体的欲望に心を注ぎ、肝

腎の天より使命を受け神の生宮であることを忘れている。こうした小人が多数現はれて来ると、世界に災害

が続発し、天下は益々混乱し、意志が薄弱で、事を断行する気力に欠ける人のみとなり天命を畏れず、誠を

忘れ自分の利益にのみ走ことになる。

 富貴を羨み貧賤を侮り自分より勝れた人に従って学び且つ教を乞うことをせず、却ってこれを非難し己れ

の足らぬ点を補うこともせず、善悪に関係なく自分を賞め自分に従がってくるものを親友とするため、遂に

一身上の災禍を招き、忽ち恨みの炎を燃やすのが魔心の結果である。

 執着心が強く自分から地獄道を造り邪気を生み、それによって自ら苦しむ者が天下に充満し、阿鼻叫喚の

惨状を露出する社会となってきた。そこで至仁至愛(ミロク)の大神はほっておけないお気持ちから、この

世こそが天国であると言う究極の真理を説き、人生を意義あるものにするため大慈悲心より、霊界物語を発

表し苦集滅道 を説き、道法礼節を開示されたのである。


五六七の神に因んだ五百六十七章は第14巻第17章「一寸一服」》で瑞月王仁に因んだ(聖師様は旧暦七月十

二日生まれ)七百十二章は第22巻第20章「三の魂」です。  


少し気になる所を抜き出してみました。

◆宇宙万有一切を我身魂の所有と想い

宇宙の全てを自分の所有とするとはなんと壮大な想いであろうか。春夏秋冬四季を通して、また夜も昼も、

風雨や雷も、霜や雪も、森羅万象全てが言霊の威力によってその働きをする程の力を持つならば、始めて神

心を発揮出来るのである。これこそが神心、神の働きであろう。こうした大きな心構えが必要なのでしょう。


◆『小三災の饑病戦や大三災の風水火』については、玉鏡の「小三災」を参照して下さい。

戦争の中で最近ではサイバー戦争などが気になります。


◆『生死に対しては昼夜の往来を見るが如く』

「昼夜の往来」とは吾々の日常生活の往来であろう。生きることも死ぬ事も見方を変えれば霊界から現界に

再生し、そこでの生活(神業)が終わったら再び霊界へ復活するのである。神様のお目から見れば生死は日

常の往来と同じである。


◆『小我を棄て大我に合し(小さな欲を棄て大きな欲に会わせ)』

霊界物語第一巻第12章「顕幽一致」に以下のように示されている。

 『これより推し量って考える時、小さな悲観は取るに足らないとともに、釈迦の根本的教説に反する原因

や因縁を考えないで勝手に物事を楽観視することもいけない。大楽観と大悲観とは結局同じであって、神は

大楽観者であると同時に、大悲観者である。

 凡俗は小さな悲観者であり、また小さな楽観者である。社会といい、娑婆といい、現界と言うのも皆小苦

小楽の世界であり、霊界は、大楽大苦の位置にある。理趣経には、「人間の欲深い心や愚かな心はそのまま

悟りであり、これはすべてのものの真実のすがたにかなった知恵を悟った境地である。また、肉体の欲望も

そのまま悟りへの道である」とあって、いわゆる世間の種々のすがたがそのままに深遠な道理を表わしてい

るのが究極の真理である。

 禁欲主義はいけない、恋愛は神聖であるといって、しかもこれを自然主義的に、本能的に行う行為が自分

と同程度に行って、満足しているのが凡夫である。これを拡げて宇宙大に実行するのが神である。』


◆『舎身』も月鏡 272の「舎身活躍」を参照して下さい。


 

◆『他人の自己に等しからむことを欲せず』

 人はどうしても自分が一番正しいと思いがちで、又自分と他人が同一であることを望むようだ。しかし良

く良く考えてみると自分の知識や判断などほんの狭い範囲のものである。ところが自分より劣っているとか

下だと見ると、考えや行動が同じでないことが許せないで非難する傾向がある。本来は人それぞれ個性があ

り、考え方やものへの理解度が違っているのが当たりまえである。自分の考えが一番正しいとして押しつけ

るのでなく、自分と他人は皆違いがあるのだと言うことを理解し、親切心で向かい合えば争いはなくなる。


◆『楽しみ。尽し。励み。〔天命を楽しみ、人たるの天職を尽し、自己の生業を励み〕』

ここの「楽しみ。尽し。励み」はミロクの世を建設する最終段階に生まれ来て心しなくてはいけないことで

す。

「楽しみ」ここでの意味は失敗したとしても自暴自棄とならず、天命として楽しみ、即ち穏やかに受け

入れることがたいせつだと示されています。人生はこの楽しむ、神の試練と受け入れる心が大切です。

「尽くす」人はこの地上に生まれて来たのは、天職を尽くすために生まれてきたのです。人の天職は死

後天国に復活することで、同時にその事は地上を天国にすることに繋がります。一人一人の心の内に天

国が築かれれば自ずとこの世は天国になります。自分の心の内に天国を築くよう尽くさなくてはいけま

せん。

「励む」日常生活の中での生業は大切です。一生を送る基礎の一つです。宇宙は常に活動しています。

活動すると言うことは止まるのではなく常に前進することを意味します(進展主義)。生業も常に前進

するよう励まなくてはいけません。それは社会に尽し、進歩発展すことで、神さまは止まることを嫌い

ます。怠惰な生活や隠遁生活は罪になります。第1巻第2章{業の意義」にも同様のことが書かれてい



◆『非は理に克たず、理は法に克たず、法は権に克たず、権は天に克たず』

意味は「非道は道理に克たず、道理は法律に克たず、法律は権力に克たず、権力は天道に克たず、天に克も

のなし。天命、天道に従って生き、行動すべきである」と解釈されている。楠木正成の思想が反映している

と言われている。そして、この言葉は、正成が大江時親に兵法を習っている時に教えられたと言われ、旗指

物に印し、座右の銘にしていたとも伝えられている。 「非理法権天」は中世期の法観念。


富山・高岡教室 2月19日(木)

第17巻第11章「顕幽交通」を拝読。

病に伏せっていたお節は黒姫の筆先を聞いて仮死状態となり八衢に来ています。先の羽化登仙で救われた鬼

彦、鬼虎たち5人の副守護神が裸男となって現れお節に絡む場面です。平助に罵倒された恨みが妄念となっ

て、お節を痛めつけようとしているところへ、お節の叫び声で青彦が助けに来ます。 青彦に大麻を左右左と

振られ、また霊縛を加へられ涙を流して震えていた所からの会話である。

青彦の天の数歌(神歌)で修羅の妄執が解け、更に神言によって5人は救われます。副守護神も改心によっ

ては天国に救われるのです


金沢教室 2月23日(月)  


第15巻第14章「奇の岩窟」、第15章「山の神」を拝読。

「奇の岩窟」では

地底の岩窟に落とされた高国別は女神に「第一着手として妾の素性を能く審神(神の素性を見分ける)して

ください」と言われるが自分の行く所は何処かと人に尋ねるような審神者だとからかわれます。『ホヽヽヽ

ヽ、此鼻々々、不細工屋姫の低国別サン、合点がゆきましたか』と暗に素性を言われても気がつきませんが

、女神が自分の鼻を押さた事で木花姫と初めて気がつきます。

また、『汝は忠と仁との分水嶺に立ち其去就に迷ひ、今や自ら身を殺さむとせしは不覚の至りなり、先づ先

づ心を落付けよ。神須佐之男の大神は御安泰に坐しますぞ、汝が真心を試さむ為め、木花姫之命身を変じて

迎への男となり、所存の臍を固めしめむとなしたる神業なり。須佐之男尊は神変不思議の神力在しませば心

慮を煩はすに及ばず、一時も早く地底の岩窟に落ちて、魔神に悩まされつつある数多の生霊を救へ』とある

ように忠と仁との板挟みになった高国別が自殺までしようとするのは少し軽率で、冷静になった考えれば判

断の付くことだと思います。

                                  以上阿良田記

次回

金沢教室 3月23日(月)午後1時30分より 第15巻

富山教室 3月19日(木)午後7時より    第17巻


八重洲教室 2月21日(土)  


 冒頭では大阪教室の模様や、2月3日の節分祭の模様やその意義について話を聞く。


第34巻  第七章 無花果  第八章 暴風雨  第九章 玉の黒点  第一〇章 空縁  

      第一一章 富士咲  第一二章 漆山  第一三章 行進歌 

 黒姫は房公と芳公を連れて筑紫ヶ岳の山道を登って行くのであったが、房公と芳公が動けなくなってしま

い2人を置いて先に進んで行く。残された二人は暴風雨に会うのであるが、その時玉治別の宣伝歌が聞こえ

て来て暴風雨が拭うがごとく晴れて行き、足も立つようになる。

 高山峠の頂上で玉公等は以前父親か日の出神からもらった水晶玉に黒点が現れたことから黒姫が来ること

を予知していた。やがて黒姫が現れて、高山彦の妻だとの話を聞くのと、建国別の母かもしれないとわかっ

て、まず黒姫を建国別の館に案内して行く。

 建国別は黒姫の以前捨てた子供ではなかったが、黒姫は高姫が捨てた子供ではないかと思いつつ建国別に

はまだ告げずに去って行こうとする。

             
                                        桜井道彦記