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教室レポート(120)        2014










金沢教室 8月18日(月)  


富山、金沢共通

霊界物語第18巻 霊の礎(四)(愛善世界誌 八月号掲載文より)を拝読


 まず、主神(すしん)を認め、深く信じ、厚く愛する者で、そして主神から認められ、愛され、信じられた

者は天国に行く事が出来るのです。

天国といっても全て同一ではなくそこに自ずと差がある(天国は大きくは三つの段階に分かれている)。

天国が満ち足りた空間であるのは天人が皆が同一でないからで、各々の霊性に応じて、同じ霊性の天人が集ま

ってこそ、心地よい居場所と言えるのである(同気相い求む)。

それは一本の樹木に咲く花も場所によって満開の枝もあれば、半開やつぼみの枝があるようなもので、霊身の

高下に応じた居場所が与えられているのです。

霊の礎(3)第17巻

一、高天原の天国は主の神格に由りて所成せられて居る。故に全徳の人間の往く天国と、三徳二徳一徳の人

  間の往く天国とは各高下の区別がある。又主を見る人々に由つて主の神格に相違があるのである。

一、そして何人の眼にも同一に見えざるは主神の身に変異があるのでは無い。主を見る所の塵身又は霊身に、

  その徳の不同があつて、自身の情動に由りて其標準を定むるからである。

一、天国には霊身の善徳の如何に由つて高下大小種々の団体が開かれて居る。主を愛し主を信じて徳全きも

  のは、最高天国に上り最歓喜の境に遊び、主の御姿も亦至真至美至善に映ずるのである。茲に於てか天

  国に種々の区別が現出し、主神の神格を見る眼に高下勝劣の区別が出来るのである。

霊の礎(3)と霊の礎(4)は同じ事を言っているのだが(3)は解りやすく表現されています。

 

「真神又は厳瑞なる()神に認められ」とある。ここで、真神と主神(厳霊、瑞霊)との違いは何でしょうか。

宇宙は霊力体の三元によって創造され、又この三神の働きによって運営され守られていると示されています。

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一、無限絶対無始無終に坐しまして霊力体の大元霊と現はれたまふ(まこと)の神は、只一柱在すのみ。

  之を真の神または宇宙の
()神といふ。・・・・・・

一、厳の御霊日の大神、瑞の御魂月の大神は、()の神即ち大国常立大神の神霊の御顕現にして、高天原の

  天国にては日の大神と顕はれ給ひ、高天原の霊国にては月の大神と顕はれ給ふ。【63/4 山上訓】

第13巻総説 ◎神統別  に

先づ宇宙の本体之を人格化して、天之御中主神と称し奉る。宇宙の活動力之を人格化して高皇産霊、神皇産霊の

神と称し奉る。渾沌たる無始の始めに於て三神造化の首を為し、二神夫婦の道を開き給ひて、国土山川を生み、

日月星辰を生み、風雨寒暑を生み草木、動物、人類を生み給へり。


幽の幽におられる真神が、幽の顕界でお働きをされる時は主(ス)神と呼称する。即ち、天之御中主神(幽の幽

)が大国常立大神(幽の顕)となて厳霊、瑞霊として働らかれるときは
()(しん)と申し上げるのではない

でしょうか。

第47巻総説に『故に此物語に於て()の神とあるは、神素蓋鳴大神様の事であります』とあります。


注:「主神」の読みについて: 冒頭三ヶ所に「主神」の文字が出てきます。愛善世界社版では「しゅ・しん」

とルビが振られています。天声社昭和四二年度版では「す・しん」です。数年前にインターネットで入手した電

子版では前が「す・しん」で後が「しゅ・しん」とルビが振られていたが、最近の物は愛善世界社版に合わせた

のか「しゅ・しん」になっています。

これは校正の難しさを示すもので、出版される側は十分注意されているとは思いますが難しい問題です。これに

限らず、それぞれの本にルビの間違いが見受けられます。読みによって意味の範囲が違う場合があります(市場

=しじょう と いちば)。

大本では「す・しん」の「す」は「ス?〔丸の中にホチ(点)の入った形〕」で、「しゅ・しん」は神格としては

下になるのではないでしょうか。

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 天国を一つの人体(単元)に譬えれば、分体はその内部の臓器や機関であり、各臓器(分体)は理想的に配置

されている。お互いに和合と協力によって臓器や機関はリズムと調和を保ち、決して単独で行動するものでない

残念ながら次の文章の様々な変化とは何を指すのか理解出来ません。

「宇宙間に於ては一物と雖も決して失はるる事も無く、又一物も静止して居るものでは無い。」とは宇宙全体が

即ち神であるから、どんなものも失なわれることはない。また、神そのものは活動力であるから静止は死(失う

)を意味します。したがって精霊も一生そこに止まってることは出来ず。再生はあり得る。そこで、現世に生ま

れてきたとき、生前の記憶を失って生まれてきたのでは生まれる意味が無いのではないかという人がいる。確か

に霊魂不滅という点から言えば意志や情動、記憶は無くなる物ではないが、なぜ現世に生まれてくると生前の記

憶がないかと言えば、現界に生まれくれば、現界の法則に順う必要がある。ほんの小さな肉体に宿る魂は又それ

に相応した魂である必要がある。時間の経過につれて霊肉は共に発達をとげる。また、生前の記憶(どこで生ま

れてどんな人とか関わりがあったかなど)は修行をする場でもある現世では何の役にも立たず、かえって障害に

なる。とは言えその人の個性や霊性は幼少でも歴然と現れてきます。《第11巻の「死生観」にこの間の事が出て

いる》

そして死後、天国に行くときは現世の意志や記憶そのままの状態で霊界に入るのです。だから天国に行くことは

再生とは言わず "復活" というのです。即ち霊界が基本と言うことであろう。また、人によっては中有界や地獄

から再修行のため現界に生まれてくる人がいる。この場合も再生です。

 現代の交霊論者〔一般に交霊会、チャネリング、スピリチュアリズム(交霊術、心霊術)など〕が憑依現象や

死後の世界について語ることは全くの無用な行為というわけではない、それは多少なりとも神霊の存在を認識さ

せる行為であるからです。しかし、彼らはほんの一寸、時間空間のない霊界を覗いただけで、言ってみれば霊界

のほんの入り口(八衢のほんの手前)を覗いただけで、霊界そのものは全く五里霧中の中にある。従って彼らに

宇宙の秘密や真実を明らかにせよと言っても無理です。

 宇宙の事は我々人間の言葉で到底言いつくせないし、霊界(天国や霊国)の神秘や実相は人間の頭脳ではとて

も理解出来ない。

  人に霊魂があり死後も生きて霊界に居るというなら、何らかの方法で我々に連絡してくるはずだと言うが、死

者が我々と連絡が取れる時分、即ち、中有界にいるときは現界同様、我々に連絡するほどの材料を持っていない

。そして、天国に行って神の偉大さを知ったときは最早霊界の規則によって、我々とは連絡が取れないのです。

前般は大変難解であり、とてもこのまとめに自信があるとは言い難い。

 

金沢教室 8月18日(月)

第一五巻第12章「一人旅」、を拝読

この章は何度読んでも心に響く。霊界物語の真の主人公、素盞嗚尊がいよいよ登場される。前半のお歌は素盞嗚

尊が顕要の地位を捨て、「神退いと言う形を取って」と信一先生もおっしゃっておられるように、本当は自発的

に万民の罪穢れを一身に引き受けて天上界を去られ、いよいよ救世の神業に向かわれ地教山に現われた場面であ

る。そして鬼雲彦に代表される悪の巨魁、八岐大蛇とそれに従う金毛九尾の悪狐を言向け和し、世界を救われる

事が象徴的に歌われています。

また、母神伊邪冊命との対面は感動的である。高天原での事件と今後の救世の神業を思い、母親として子を思う

気持ちとが切々と現れています。「叢雲の剣を得て天教山に坐し在す天照大神に奉るまでは」とある。大蛇の尾

(最も下層社会)にあった叢雲の剣(霊界物語)を天照大神に奉る(世に出す)のが素盞嗚尊(出口聖師)のお

役目なのだと思います。

 

富山・高岡教室 8月21日(木)  


本日より第17巻に入る。序文、凡例、総説、第一章「黄金の衣」を拝読。

正月の二八日に、平助、お楢は孫のお節が無事戻ったので真名井原に詣でようとお節を連れて三人、雪道を行く

。足の速い岩公、市公、勘公は一足先に進み行く。平助の娘お節をさらった鬼虎、鬼彦は悪業の鬼に攻められ、

平助の家に泊めて貰えず夜通し歩き続ける。途中で糞ツボにはまり、寒風を押して裸になて進むが、途中で岩、

市、勘に追いつかれる。五人はおコン狐に欺され、糞ツボを囲んで天津祝詞を奏上している。そこに平助一行は

追いついてくる。

                                     以上阿良田記

次回   金沢9月22日(月)午後1時30分より 15巻

     富山9月18日(木)午後7時  第17巻


八重洲教室 8月23日(土)  


 冒頭では先日の福知山、綾部の大雨の模様や、8月6日に行われた王仁三郎聖師生誕の日である瑞生祭

および前後して行われた七夕祭のことなどを聞いた。


第32巻  第一四章 山上の祝  第一五章 万歳楽  第一六章 回顧の歌  第一七章 悔悟の歌

      第一八章 竜国別  第一九章 軽石車  第二〇章 瑞の言霊 

 アマゾン河のモールバンドやエルバンド等の魔神を言向け和した一行は言依別・国依別等と帽子ヶ岳の

頂上に国魂神の神霊を祀り、祝詞を奏上し大宴会を行う。その後18人になった一行はウズの都の末子姫

の館に凱旋する。

 末子姫の館には神素盞鳴大神もはるばると此処に訪れていた。末子姫は凱旋を祝し、自ら歌い自ら舞う。

引き続いて言依別、国依別、松若彦、鷹依姫、高姫、竜国別、石熊、カールが回顧の歌を歌う。

そして神素盞鳴大神も喜びの歌を歌う。「・・・神の大道をよく守り 五六七の神世の神政に 清く仕え

て天地の 神の柱となれよかし・・・」。

             
                                        桜井道彦記