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教室レポート(119)        2014










山口教室 7月12日(土)  


 7月12日(土)午後1時から4時まで、大本山口本苑で参加者10人により、おおよそ4年ぶりに

物語勉強会を行った。


【心に三・口に一】

47巻「総説」と同巻9章「愛と信」を拝読し、スエーデンボルグの「天界と地獄」を参考にして、

特にこれらに出てくる「心に三を念じて、口に一を言うを得ず」とはどういうことかについて勉強を進

めた。


ところで、「天界と地獄」の全部を物語と突き合わせてはいないが、同書は物語にある神格論や霊界

に関する記述の底本のように見える。


【聖言・神諭には密意】

勉強会ではまず、世界終焉の予言と言われる聖書のマタイ伝24章(29~31節)に触れている同

書の「序」と、物語42巻1章「北光照暗」とは同じ内容であること、また、両方に「聖言・神諭には

密意があり内義的に解すべきで、文字そのままに解するべきではない」との旨が示されていることを確

認した。


【主の上に集中】

次に、同書と47巻の「総説」・「愛と信」を、私が作成した対照表により比較した。

同書には、物語にあるのと同様の記述「心に三を念じて、而して口に一を云ふを得ず」をわかりやす

く説明した「神格を三分して、各位分立すと思ひ、これを一となして主の上に集中し得ざるものは、天

界に入ること能わず」との記述が併せてあった。

また、物語には、太元神・厳の御霊の大神と同体神である救世神・瑞の御霊の大神は、「総ての神々

の御神格を一身に集注されている」と示されてあった。

これらは、御神号「大天主太神、厳御霊・瑞御霊大神」の奉唱時における祈念の在り方や「聖師様」

の御神格を考える上で、大いに参考となることを知った。

なお、勉強会を、今後2~3月に1回のペースで開催していくこととした。

                    

                                        (藤井 盛)


八重洲教室 7月19日(土)  


 出口孝樹先生が急遽欠席となり、皆さんと進めて行った。

 この度ヨーロッパで初めての神社がイタリア半島のサンマリノ共和国にできたとのことで、6月22日

の鎮座祭に参加された方の話を楽しく聞いた。

 また6月29日に行われた北海道の芦別山祭典が大変良かったとの話も聞いた。


第32巻  第七章 試金玉  第八章 三人娘  第九章 岩窟女  第一〇章 暗黒殿

      第一一章 人の裘  第一二章 鰐の橋  第一三章 平等愛 

 高姫一行はアマゾン河の大森林、時雨の森の北の林に安着する。美はしき1人の女が現れ如意宝珠等の

玉を受け取ってくれと言いだす。改心した筈の高姫は執着心が再び起こってだまされて行く。高姫は白狐

の高倉、月日、旭明神の試しに会い岩窟の中に入っていたと思いきや、実は泥田の中にいたのであった。

 その後モールバンドに襲われそうになり、樹上に避難しているところに安彦・宗彦の一行も訪れ祝詞を

あげても効果なきところに琉と球の大火光が現れモールバンドは逃げて行った。

 高姫一行は鷹依姫の居る南の森林に行き、猛獣達を救って行くのであった。律法を定め遵守したものは

、人間として生まれ来るようなった。またモールバンドやエルバンドも悦服して竜体となって天に昇って

いった。
             
                                        桜井道彦記


青梅教室 7月21日(月)  


                                      於、青梅市民会館。

物語20巻。第2篇、運命の綱。第5章親不知。第6章梅花の痣。

この巻は宇都山村に於いて、松鷹彦と天の真浦、宗彦、お勝の親子再会が主題の物語である。

元照彦の再来でもある、天の真浦が言依別の命と面会して、宣伝使を拝命し最初の宣教の場所が宇都山郷

で、バラモン教の友彦の影響下に有ったが、真浦、松鷹彦たちの働きで全村
アナナイ教に改宗した。そこ

へ又バラモン教の宗彦、お勝の夫婦が巡礼姿で松鷹彦と出会うとこ
ろから拝読は始められた。この3人の

出会いは劇的で有るが、真浦と松鷹彦の会見も用意されて
いて、松、竹、梅の3兄妹の過去が語られる。

松竹梅の誕生秘話は物語の中でも表現の差は有っ
ても、瑞霊の活動の場が語られる。宗彦はやがて国依別

と出世して、この物語の主役を張る1人
として活躍する。しかし真浦は武志の宮の神官としてとどまる。お

勝も田子作(後の玉治別)の
妻としてのみ活躍の場は無い。真浦は元照彦の再来とされるが、又教団史の

中の西田元教氏でも
ある。聖師の妹の婿で義兄弟である。聖師の苦難の歴史を陰で支えた貴重な存在であ

るが、大本
の歴史の舞台から消えて久しい。大本の出口家の繁栄は語られるが、聖師の生家の上田家は歴

の中に埋没している。こらが果たしてこれが正しい事なのか?。若し大本再生が話題に上る事が有った

場合
避けて通れない重要な課題でもある。来月からの物語の展開を期待して拝読会を終了した。

                                           三輪光佳


金沢教室 7月21日(月)  


富山、金沢共通

霊界物語第11巻 第22章「征矢の雨」(愛善世界誌 七月号掲載文)を拝読。

時公『それもさうだ。併し心配して心を痛めて体を弱らすより、刹那心だ。寝る時は悠りと寝て、働く時に

や働けばよいのだ』と言う文章がある。ここで刹那心について考えてみましょう。

一般に刹那主義は「つかの間の快楽におぼれる」と言う意味ですが、お釈迦様の教では

    お釈迦様が弟子に、こう聞かれました。 「お釈迦さまは神通力にすぐれ、人の前世や来世が

見えるとの事ですが、私の前世は何でしょうか?」

お釈迦様はこう答えたそうです。 「そんなことは考えなくてよいから、今日ただ今、この刹那を大事

にして生きなさい」

 お釈迦様が使ったこの刹那(せつな) というのは、今の一瞬一瞬のことです。


  聖師様は人には過去、現在、未来が存在するが自分の自由になるのは現在だけだと仰っておられます。

それは、過去に失敗などがあって、やり直したいと思っても過去には決して戻れません。又未来に期待をし

て思いを馳せても現実になるとは決まりません。過去も未来も人のものではなく全て神様のものです。しか

し、現在と言う瞬間はどんなに短い時間でも自分の意思で自由に出来る時間です。決して自由にならない過

去や未来に気を病んで、取り越し苦労や過ぎ越し苦労をしてもストレスを抱え込んで病を呼び込むだけです。

 刹那とは仏教用語で、「極めて短い時間、一瞬間。一説に、一弾指(指ではじく短い時間)の間に65刹那

あるという(広辞苑より)」とあります。そんな短い時間でも自分の自由になる刹那を楽しんでこそ人とし

て価値が生まれます。過去は同じ失敗を繰り返さないための指標であり、未来はこれから歩んで行く希望で

す。

 物事に当たって岐路に立ったときは特にこの刹那心が大切です。自分の意思で最善として選んだ事が、結

果が凶とでても、その結果を受け入れることができます。しかし、他人の意見を聞いて迷いに迷い、あやふ

やなどっちつかずの気持で出した結論は後悔につながるでしょう。過去も未来も神様の御手にある以上、人

としでどうすることも出来ないのであれば、自分の自由になる刹那を楽しんでこそ人生を生きる楽しみと価

値が生まれるのではないでしょうか。これが大本で言う「刹那最善」です。

 過去は過去、未来は未来と割り切りましょう。それが信仰者です。先の予測の出来ない人間にとって、全

てを神様に任せることは一生という長い目で見たとき過去の悪い結果も未来への良きステップになるはずで

す。大本の信仰をしていれば必ずその刹那に神様の御内流をいただきよい判断が出来るはずです。それが信

仰です。

    今といふこの瞬間に善を言ひ  善を思ひて善を行へ

    過ぎさりし事は詮なし今といふ  此の瞬間を清く守れよ

    神ならぬ人の身なれば明日の事の  自由にならねば神に任せよ     【14/5 風馬牛】


「歌ひ終つた。雨と降り来る矢の音は、この言霊と共にピタリとやみて、数多の捕手はいづれも雪の谷道に

蹲まり、中には感涙に咽び、声を放ちて泣くものさへもありけり。」とあります。

この風景は不思議な光景です。私にはこの宣伝歌がそれほど人の心を深くとらえるものとは感じられません。

しかし捕り手は感涙に咽んだとあります。勇智愛親四魂の活用が完全な神人の発する言霊はどんな人をも帰

順させる力を持っているのです。この宇宙はスの言霊から創造されました。言霊の素晴らしさを確りと受け

止めなければ成りません。

「宣伝使たる者はこの神より分け与えられた四魂の活用を完全にすれば、どんな悪魔も従うものです。そし

て自分に対すると同じ気持ちで他人にも接する事が大切なのです。」


金沢教室 7月21日(月)

第15巻第11章 大蛇退治の段を拝読。

この内容は現代社会の荒廃を見事にとらえています。世界には悪思想が蔓延し、上も下も皆八岐大蛇や金毛

九尾によって精神を狂惑されています。草薙の神剣はもう既に天祖の奉られています。この神剣が完全に活

用される時代の一日も早く来ることが待たれます。そして、同じ思いが霊界物語第三九巻序歌(大本宣伝歌

集に「聖者の涙」と転載)で、読む度に現代の様相を的確に表現していると感じますが、本当の主旨は大本

神業の大要が謳われているのです。


富山・高岡教室 7月24日(木)  


第16巻「跋」、「霊の礎(一)」、「霊の礎(二)」を拝読。

「霊の礎(一)」は2月の愛善世界誌に掲載されたが、あらためて勉強する。

中界の天の八衢は高天原(天国)と根底の国(地獄)の中間に在る情態であるとあります。情態は心のあり

さまでしょうか。何れにしても定住する場所ではないのです。

「人は死後まず中有界に行き、そこで霊魂は試験され、行き先が決まりるまでの準備期間が与えられます」

とあります。この試験とはなんでしょうか。リトマス試験紙のように、三途の川を渡るとその人の善悪で着

ているものの色が変わるとあります。もしかしたらこうした状態のことでしょうか。


「何人も経過すべき状態が三途ある」の第三は準備の状態とありますが、この準備の状態は死後、直ちに外

分の状態ですが其れが薄れてしだいに内分の状態に移行します。内分の状態になって始めて行き先が決定す

るわけですが、閻魔様によって審判が下るまでの期間を準備というのでしょうか。


日常生活を楽しく過ごせない者は死んでも淋しい生活を送るとあります。人は神の子である以上神と他人の

ために尽くす生活をしなければなりません。又、現界に居る以上情欲も時として必要です。善悪が交じって

こそ人というものです。隠遁生活や自己のためだけにする修行は他との関わりを絶ち孤独な生活です。生前

の心の情態そのままが霊界でも続くとあり、たとえ天国に行っても決して楽しい生活は望めません。見方を

変えれば現界での生活は天国や地獄で送る生活の学習期間です。さてどちらの実習を選びますか。

                                     以上阿良田記

次回   金沢8月18日(月)午後1時30分 第15巻

     富山8月21日(木)午後7時    第17巻