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教室レポート(114)        2014










富山・高岡教室 2月13日(木)  


金沢。富山共通

愛善世界2月号掲載の霊界物語第16巻 第19章 「霊の礎(一)」を拝読。

*霊界とは神界、中界、幽界の三大境域である。


 

 

 

       神   道

 

        仏   教

 

      キリスト教

 

   神 界

 

     高 天 原

 

      極楽浄土

 

      天  国

 

   中 界

 

     天の八衢

 

      六道の辻

 

      精 霊 界

 

   幽 界

 

    根の国、底の国

 

      八万地獄

 

      地  獄

 

*中界の天の八衢は高天原(天国)と根底の国(地獄)の中間に在る情態(心のありさま)であるとあり

ます。したがって天国や地獄のように永住する場所ではないのです。

*死後直ちに中有(界)に行き、そこにしばらくいて、現界にいたときの情態(行為の正邪)により、

高天原又は根底の国のいずれかに行きます。したがって、中有の情態とは天界でもなく地獄でもなく、

三途の川辺に立って居る様なものです(行き先の定まらない、天国や地獄に行く準備の状態にある場所

)。

*人間にとって、高天原の情態とは真、善、美が和合した時であり、根底の国の情態とは邪悪と虚偽と

が合致した時をいいます。人の霊魂中に在る真、善、美と高天原の真、善、美とが合致する時、その人

は直に天国に昇り、人に在る邪悪と虚偽が地獄のそれと合致したる時、その人は忽ち地獄に墜ちるもの

です。そして此の事は天の八衢(中有界)に行った時に行われるのです。

*人は死後まず中有界に行き、そこで霊魂は試験(審判)され、行き先が決まりるまでの準備期間が与

えられます。なかには準備期間を経ず、直ちに高天原(極善者)や根底の国(極悪者)に行く者があり

ます。しかし、多くの者は数日又は数週間、あるいは数年間居るものですが、30年以上居ることは出

来ません。

*霊界に入ると神様は直にその霊魂の正邪を審判なされます。その結果はその人間が現世にいた時の主

とする愛が、何処と同期しているかによって決まります。即ちその人が現世にいた時、地獄界と同じ情

態にある悪き人は地獄界の醜団体に赴くし、其愛、其善、其真が天国の団体に既に加入して居た善き人

は高天原の善美の団体に赴くのです。

《 死後行く世界(高天原または地獄)は常日頃抱いている情態(心のあり方)によって決まる。現世で

の日常生活において、その心が真善美の情態にあれば相応の理によって真善美の世界である高天原に行

き、 邪悪と虚偽の情態であれば地獄に赴くことになる。従って日頃の情態が大切になるのです 》

*生前、親しい関係にあった人や特に夫婦、兄弟、姉妹の関係にあった人は、神の許可を得て天の八衢

でのみ会談することが出来る。しかし一旦別れたら、高天原に於ても根底の国に於ても再び会う事も見

る事も出来ない。但し同一の信仰、同一の愛、同一の性情(心情)にあれば天国に於て再び相見、相識

ることが出来る。

《 再会出来るのは同じ天国の同じ団体に所属している場合だけであろう。第70巻第5章「花鳥山」参照



「何人も経過すべき状態が三途ある。そして第一は外分の状態、第二は内分の状態、第三は準備の状態

である。」と書かれています。精霊が死後中有界に入った直後はまだ現世の情態を維持しようとしてい

ます(外分の状態=自分の心を偽ろうとする状態)。しかし時間の経過と共に外分は薄れ、魂本来の姿

(生前の愛の情態=内分の状態)となり、赴く先が決まります。外分から内分に移る時間は精霊によっ

て違いがあります。また、準備の状態とは、精霊によって外分から内分に移る時間が長くかかったり、

神様の慈悲によって中有界での修業を経て行き先が決まる場合です。そこに数日や数週間、数年といっ

た違いが生まれるのです。

 ここで心の醜悪な人が地獄へ赴くというのはよく理解できるが、「不信仰にして神の存在を認めなか

つたものは」とあるところに注目したい。

*「死後高天原に安住を得ようとして霊的生涯を送ると云ふことは、非常に難事と信ずるものがある」

とあります。そのために日常の生活を棄て山に籠って滝に打たれたり、寺などに籠って写経や読経三昧

の生活を送る事で天国に行けると信じている人に対し、よくない事と書かれています(第一巻第二章「

業の意義」にも同様に述べられている)。我々は生前の生活と同じ生活を死後も送るのです(顕幽一致)

。したがって、生業を怠らず正しく喜びに満ちた日常生活を送れば死後もその生活がそのまま続きます。

逆に一般的社会生活を避け隠遁生活などの悲哀の生涯を送れば、霊界でもそのまま悲哀の生活を送ること

となります。

 いま、死後に天国の生活を得ようとして、精神的生活に重きを置き生業を怠ることは罪であると言って

おられる。要するに現界にあっては正しい体的生活をおろそかにし、霊的生活を重視するのは霊体一如の

真理に反するのです。なぜならば進展主義が神の原則だからです。自分だけの為に努力して、社会の進歩

発展をおろそかにすることは天測違反となるからです。


富山・高岡教室 2月13日(木)

第16巻第19章「文殊如来」を拝読。

黒姫は冒頭(227頁)から231頁最後まで、本性を現し言いたい放題に言っており、ウラナイ教の本音がチョ

ロチョロと顔を出てきます。

 「此山の中で結構な神徳を戴いて、又都会(ひろみ)へ出たら、自分が発明した様に、宣伝使面を提げて

歩かうとままぢや。何でも聴いて置けば損は往かぬ」これは昨今の宗教家の弁であろうか、本を読んだり聞

きかじったことを自分の説のようにして言い歩いている。

 「この世の宝は、錆び、腐り、焼け、溺れ、朽果つる宝だ、無形の宝を神の国に積め」とあります。ここ

では飲まず喰わずの精神論ではなく、現代のように強ければ何でも正義という社会から、必要以上に物資へ

の執着を棄て、皆が生業に励み等しく暮らせ、正しい行いによって天国に宝を積むことです。ひとは死後、

物質的宝は霊界には持って行けません、霊界に持って行けるのは霊的宝のみです。しかも現代社会では物質

的宝は当たり前のことをしていてはほとんで得ることは出来ません。そこには人を押しのけ、争わなくては

ならず、過剰で我よしの競争原理が働きます。いわゆる弱肉強食の世界です。正に「神の清き御心に合むと

すれば、暗黒なる世の人の心に合ず、俗悪世界の人の心に合むとすれば、神の心に叶はず」なのです。そし

てミロクの世を迎えるにはどうしても「易きを棄て難きに就か」なければならないのです。241頁では鬼虎が

「善悪正邪の区別も知らず、天下を吾物顔に、利己主義の自由行動を採つた時の方が、何程愉快だつたか知

れやしない、あゝ、しかしながら人間は天地の神を畏れねばならぬ、今の苦労は末の為だ」といっています。

 まさに黒姫の説は現代社会のわれよしの論理です。悦子姫はそこを見抜き「黒姫様の黒い口」といってい

ます。


金沢教室 2月17日(月)  


第15巻第6章「北山川」、第7章「釣瓶攻」、8章「ウラナイ教」を拝読。

第6章「北山川」で

79pに「ハズバンドのアダムにまで勧め食はして遂に神罰に触れ、其邪気は凝つて八頭八尾の大蛇となり、

金毛九尾の悪狐となり天下に横行する様になつたと云ふ事だ」は物語第60巻によると海王星から来たタク

シャカ竜王にそそのかされたエバ姫は神の戒めに逆らい、木の実を食します。霊(たま)の邪気より3種の

悪神が生まれたとあります。

第7章「釣瓶攻」

89p 安彦「吾々宣伝使は敵でも助けねばならぬ職掌柄だ。」とあるように三五教は敵味方の区別をつけ

づ助けるのが役目であるから、道彦が言うように「吾々は天津祝詞の言霊を奏上して、神助を仰ぐより外に

道はない」のです。

ここでも妙音菩薩に助けられる。

 田加彦、百舌彦は一つ前の弥次彦(国彦)、与太彦(安彦)のように何とも取留めのない人種である。三

五教の信者と言っても、初めのうちは霊的にはこうしたものなのであろうか、その証拠に次の8章「ウラナ

イ教」の最後の部分で道彦が『此等二人は三五教の教理は到底高遠にして体得する事は出来ませぬ、善とも

悪とも愚とも訳の分らぬ半ドロ的の人間ですから、ウラナイ教の宣伝使にでもお使ひ下さらば最も適任でせ

う』といっています。しかし、神の御綱に繋がれた以上、教えを確り学ぶことによって、本当の宣伝使にな

って行くのでしょう。心せねばなりません。

                                     以上阿良田記

次回

金沢教室 3月17日(月)午後1時30分より 第15巻

富山・高岡教室 3月13日(木)午後7時より 第16巻


八重洲教室 2月22日(土)  


 冒頭では先日の関東の大雪の模様や節分祭の模様を聞く。節分祭当日は穏やかで暖かい日であったが、翌

日立春の人型流しでは気温も下がり、吹雪の中で舞鶴沖の海で行われたことを聞いた。


第30巻  第二二章 大蜈蚣  第二三章 ブール酒  第二四章 陥穽  

      附記 湯ヶ島温泉 天津祝詞解 デモ国民歌

第31巻  序歌  総説  第一章 主一無適  第二章 大地震  第三章 救世神    

 マチとキジは蜈蚣に追われながらウラル教の霊地の日暮シ山に到着する。そこではアナン、ユーズが教主

のブールを欺き酒盛りをしていたが、キジとマチは落し穴に落されてしまう。

 国依別はエリナの家へ行きエリナの母親の病気平癒の祈願をするが、エリナの心中は国治立神が善神か、

常世紳王が善紳かの煩悶苦悩が有り、国依別の鎮魂の効果なく此処を立ち去って行く。その後エリナの母親

は息を引取り、エリナの家は大地震で起こった火災で無くなってしまい、エリナは国依別の後を追う。

 国依別がヒルの都を訪れると大地震が起こり、楓別命の妹の紅井姫を救い、更には言霊で地震や諸山の噴

火を治めてしまい、国内こぞって三五教の信徒となるのであった。

              

                       
                                        桜井道彦記