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教室レポート(106)        2013










金沢教室 6月17日(月)  


愛善世界六月号掲載の霊界物語第52巻第17章「飴屋」を拝読。

 人間は肉体を住家として現世で生活を送る精霊(正守護神)で、副守護神は謂わば肉体を維持するための同居

人です。そして、霊的な働きを内分と言い神に向い、内分を包む体的な働きを外分と言い地獄に向かっていま

す。霊主体従とは「人間の内分が神に向って開け」た状態で、人の内面の働き(情動)即ち正守護神の働きが

神に向かうことです。『外的の事物』とは世間一般の事柄を指し、それに執着しないことです。

 『斯の如き人は所謂地上の天人にして、生きながら天国に籍を置いて居る者で、この精霊を称して本守護神

と云ふのである。』上記のように内分が神に開けた人(精霊)は生きながら天国に籍を置くので、正守護神と

は言わず本守護神というのです。

 『体主霊従とは、人間《現界では》はどうしても霊界と現界との中間に介在するものである以上は、一方に

天国を開き一方に地獄を開いて居るものだ。故に人間はどうしても善悪混交美醜互に交はつて世の中の神業に

奉仕せなくてはならない』とは。中有界は天国と地獄の中間にあり、こうした状態の精霊は中有界に籍を置く

人間のことである。

 終極点とは神の経綸(意志)は幽の幽に始まり、天界(幽の顕、顕の幽)を経て終極現界(顕の顕)に至り

、完成するのです。

 『外的方面より見て体主霊従と云ふのである』とは体的方面即ち現界より見て云うことです。「主観的には

霊五体五(霊的五分、体的五分)」とは、本来は霊体五分五分であるのが正しい。しかし物事には主従の関係

がなければ治まらない。従って霊を主として行う時は霊五体五となり、体を主として行う時は体五霊五となる

。即ち人の行動(愛)が内的(霊的、神より来る愛)か外的(体的、自己よりする愛)かによって、霊五体五

か体五霊五となる。神を主体とする人間は天国に向い、自己を主体とする人間は地獄に向かう。

 第六巻第26章 「体五霊五」に (附言)「霊五体五(霊主体従)をひのもとの身魂といひ、体五霊五(体

主霊従)を又ひのもとの身魂といふ。併し行動上の体主霊従は、之を悪の身魂または智慧の身魂といふなり。

また霊主体従とは霊五体五の意味で、体主霊従とは体五霊五の意味なりといふ説明は、組織的の説明にして、

行動上の説明にあらず。読者よくよく注意すべし」と有ります。現界にあっても行動の上ではあくまでも霊主

体従です。


(二)

 『体主霊従とは、生ながら中有界に迷つて居る人間の境遇を云ふのである』とある。人間が自分は一つも悪

をしていないと思っていても、心の状態によって同じ行為が善とも悪とも成るのです。即ちその心が神に向か

っている(神的愛=天国)か、自己に向かっている(自然的愛=地獄)かで変わります。たとえば、同じボラ

ンティアでも純粋に困っている人のためにすれば善であり、これを利用して、後に何か商売にでも結びつけよ

うとする気持ちは悪となります。

 『故に人間は、どうしても霊五体五より下る事は出来ない』はどうしても「霊五体五より下ッてはいけない

」という意味です。

(三)

 現代の人間(正守護神)はほとんどが中有界か地獄に籍を置いていると書かれています。それだけ人の心は

曇っているということです。

人間の霊が肉体を離れて霊界に行つた時、其霊を包んでいた外分(即ち自分を飾ろうとする、ぬいぐるみの様

なもの)は時間の経過と共に除かれ、本来の姿である内分(精霊本体)だけが現れてきて、霊的生涯を営むこ

とになります。

 肉体に付いていた悪は吹き払われ、純潔となった霊は霊(みたま)相応(純潔の度合いに応じた)の天国に

行くのです。だから、自己の利害だけを念頭に置くような利己心の強い霊は死後もその執着に縛られ,外分が

取り除かれても、内底にある悪が現れ,正しい者から見ると正に妖怪変化のような姿になり、自己と相応(悪

の度合いに応じた)した地獄へと落ちて行くのです。

 

 霊界物語第16巻第11章「河童の屁」、第12章「復縁談」を拝読。

 松屋を出て六公の跡を追いながらようやく、二〇峠の麓に着く。例によって弥次彦と与太彦は「与太」を並

べながら頂上に着く。

先に食べた牡丹餅が影響して弥次彦は俄に便意を催し茂みに入るが、反対側からも「ウン、ウン」とうめき声

がする。やがて六行が現れ、四人揃う。そこへウラル教の捕り手、烏勘三郎が現れるが人差し指の先より出る

霊光に苦しみ、遂に改心します。

 復縁談では六公とお竹との関係が明らかとなり、改心した六公とお竹との復縁話が成立します。また、ここ

では夫婦は二世という不文律が勝公によって説かれています。

                                           阿良田記

次回 7月23日(火) 午後1時30分より 14巻

 

富山教室 6月20日(木)  



初めに愛善世界4月号掲載の霊界物語 第44巻 第8章「光と熱」を再度拝読。

第16巻第8章「衣懸松」を拝読。

第15巻第8章「ウラナイ教」に続いてまた高姫が登場する。青彦は真っ正直で融通の利かぬ青年である。

一方高姫は全てを自分中心に考える人で、素盞嗚尊を悪と見て徹底的に反抗し潰そうとする常世姫の再来であ

る。

 ここでは高姫(ウラナイ教)の考え方が述べられている。今後随所に出てくる高姫の行動と考え方の基礎と

も言えるであろう。

高姫にとっての改心とは「神素盞嗚尊の誠の教を、嘘だ嘘だと言つて、其教子を虱殺しに喰ひ殺し、そつと舌

を出して、会心の笑を漏らすと云ふ謎だよ。お前もまだ悪が足らぬ、飽くまで改心……ドツコイ……慢心する

が宜い。慢心の裏は改心だ、改心の裏は慢心だ、表教の裏はウラル教、表と裏と一つになつて、天地の経綸が

行はれるのだよ」と、ウラル彦のウラル教を基本に教えを立てているようだ。

第33巻 第22章「高宮姫」には高姫の素性が高姫自身の口から語られている。参考にされたい。

 「定まつた事だ。米の字に因縁のある所に建てたお宮に立てこもつた吾々は、迷宮に居るのは当然だ。三五

教の素盞嗚尊は、よつぽど、馬鹿正直な奴だ、世界の為に千座の置戸を負ひよつて、善を尽し、美を尽し、世

界から悪魔だ、外道だと言はれて、十字架を負ふのは自分の天職だと甘ンじて居る、コンナ馬鹿が世界に又と

一人あるものか、世界の中で馬鹿の鑑と云へば、調子に乗つて木登りする奴と、自ら千座の置戸を負ふ奴と、

広い街道を人の軒下を歩いて、看板で頭を打つて瘤(こぶ)を拵へて吠える奴位が大関だ」
 米の字を分解す

ると八木となる、「新月の光」によると八木(現京都府八木町)は常世の国に比定されるようだ。

 高姫は時々良い事も言っている、『アヽさうぢや さうぢや、さうなくては信仰は出来ない。信仰は恋慕の

心と同じ事だ、男女間の恋愛を極度に拡大し、宇宙大に拡めたのが信仰だ。恋に上下美醜善悪の隔ては無い、

宜いか、分かりましたか』

                                          阿良田記

次回 7月25日(木)  午後7時より 16巻



八重洲教室 6月22日(土)  


 孝樹先生が欠席の為、皆さんで進めていった。

冒頭で6月16日(日)に行われた「王仁の道」を行くの企画で横須賀、鎌倉に行ったことを紹介した。王仁

三郎聖師が大正5年に訪れた横須賀の走水神社、大正8年に訪れた鎌倉の鶴岡八幡宮等の足跡を追った。


第28巻  第八章 混乱戦  第九章 当推量  第一〇章 縺れ髪  第一一章 木茄子  

      第一二章 サワラの都  第一三章 唖の対面  第一四章 二男三女  第一五章 願望成就

 玉藻山の聖地のホールサース、マールエース、テールスタン等は統治権を掌握しようと、泰安城に向って出

陣して行く。真道彦命は不本意ながらこれに従って出陣して行く。テールスタン、エールは淡渓の館に幽閉さ

れていたカールス王を救い出す。真道彦命の率いる三五軍は泰安城を征服する。真道彦命はカールス王を泰安

城に奉迎しようとするが、王の疑いが晴れず、ヤーチン姫と共に牢獄に投じられてしまう。

 日楯、月鉾、ユリコ姫は神懸りにより琉球を目指して行く。途中様々な艱難に遭いながら照彦と照子姫の治

める琉球の南島に至り、常楠仙人より赤白の玉と大中小の鏡を得て台湾に戻る。月鉾はテーリン姫と婚儀を行

う。

                 

                                          桜井道彦記


青梅教室 6月24日(月)  


                                    於青梅市民会館、19時~

物語18巻、第9章、朝の一驚。10章赤面黒面。

5月は奥多摩分苑大祭、慰霊祭に参拝して、祭典後に拝読会を行いました。今月から通常の拝読会に戻り青梅

市民会館にて開催されました。18巻は玉照姫誕生に纏わる物語で、19
巻の玉照彦誕生と共に重要な巻と言

う事で、今回も内容に深く関わりながら拝読しました。

ウラナイ教の梅公ら8人の八百長芝居にて、綾彦、お民夫婦を信者にしたが、褒美の振る舞い酒で、八百長が

綾彦夫婦にバレル。翌朝、黒姫に叱られるが、梅公の機転で大江山の邪霊の
仕業にして難を逃れる。身内に甘

い所などは現代風でも有る。ここでは黒姫が梅公、又寝返り組の
青彦紫姫らを相手に説教するが、ウラナイ教

の本質が語られる。多くは大本神諭の中の『神の戦い』
と呼ばれる会話、問答等の抜き書き、また神諭の要点

書き、開祖の本心を巧みに取り入れて説教してい
る。

・        ・稲荷位は誰にも憑るが、誠の大神は禰宜や巫女ひは憑らぬぞよ・・経てが七分に緯三分・・等の

用文は明治38年4月16日の神諭に出ている。殊に変性女子の改心を迫る筆先、素盞嗚尊が岩戸を閉めた

のが悪い等の表現は開祖の本心が露わに描かれる。新しい大本神諭第2巻、3巻
には聖師攻撃の内容が、これ

でもか、これでもかと言う位吐露される。旧大本神諭(昭和40年代発
行)では全てカットされているが、教

団草創期の歴史はかなり美化されている。当時の開祖、聖師をめぐる動
きの中で、高姫、黒姫と表現される、

お二方の置かれた立場すら垣間見せて、ここの問答は面白い。

正しい大本歴史、教団史が待たれる所以でも有るが、大本70年史に漏れた記述が多すぎる様に思う。変性男

子は先走り、とか変性女子は弥勒さまとかの言葉が黒姫にて語られるが、神霊
界誌上に、用意周到に発表され

ている事を思えば、ご口述当時の聖師の心境にこころを動かされる。
高姫と黒姫が日の出神と竜宮の乙姫の偽

物との設定は、これも用意されたものでも有
ろうが、大本神諭に由来するのでもあろう。とは拝読後の雑談で

有ったが、当たらずとも遠からず?
か。

                                        三輪 光佳

次回、7月29日。18巻