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教室レポート(101)        2013







富山教室 1月17日(木)  

金沢。富山共通

愛善世界1月号掲載の 霊界物語第73巻、天祥地瑞「総説」を拝読

稚姫君命の霊性の御霊代として尊き神人は開祖様であり、アの言霊より生れた太元顕津男の神の御霊の神人

は聖師様です。開祖様が昇天され、厳の御霊の神業一切を聖師様が受け継がれ、厳と瑞とが合体し聖師様は伊

都能売の御霊となられます。

主神の一霊四魂は 荒魂と和魂(高皇産霊の神)を主とし、奇魂と幸魂を従として厳の御霊の働きをされ、

また奇魂と幸魂(神皇産霊の神)を主とし荒魂と和魂を従として瑞の御霊の働きをされます。

つぎに、機織の機のように経糸(厳霊)は神人一般に対し、仁義道徳を教へ夫婦の制度(天地の律法)を固

め、決して犯してはいけない神律ですが、緯糸(瑞霊)は世界の初めに太元顕津男の神として現れ、国生み神

生みの神業に奉仕なさり、何時までも変わることのない経綸を行い、若返り若返りつつ末世に至るま活動をな

さっています。其間幾回となく肉体を以て宇宙の天界に出没し、其の経綸は始めも終わりも無く続けられてい

ます。他の神では決して其の行為を真似する事の出来ない、主の神より厳定され、今日に至っているのです。

神は掴みようがないほど茫漠として大きいので、様々な宗教や賢人、哲人と言われる人が定めた道徳的規準

を本に考えたのでは伊都能売神の御神業はとても知り得ない。(本文中の道徳率は道徳律の間違えではないで

しょうか?)

そして最後に、「本書は有徳の信者又は上根の身魂で神理(宇宙の根源的真理)を理解し得るほどの身魂で

なければ授与(拝読)されないのです。この物語を読んで神理を悟り知る人は従来の心の持方を一掃し、三千

世界更生の為に其の力を添へられん事を希望して止まない」と天祥地瑞を拝読する心構えと資格が述べられて

います。


富山教室 1月17日(木)午後7時より

 霊界物語第15巻「跋文」を拝読

 神霊世界と我々が住む世界とは外見上は全てが相似している。しかし、神霊界の精霊が見る森羅万象はその

起源を霊界の法則に従うので天人や精霊の眼には入るが肉体(現界)人が見ることは決して出来ない。逆に現

界人が見る森羅万象はその起源を現界の法則に従うので神霊界の精霊には決して見ることは出来ない。それは

顕界と幽界に区別をつけられた神の法則だからである。

 現界人が霊界を見ることが出来るのは神の許しがある特殊な場合である。また、神霊界の精霊が現界を見る

ことが出来るのは鎮魂帰神によって人間の体を藉り憑依した時ようやく現界の一部を見聞でき、人と対話出来

るのである。なぜなら肉体人の目は形体界の光を見るのに適し、天人や精霊の眼は天界の光を見るのに適すよ

う造られているからだ。

 霊界と現界は上記のように相似しているので、人は現界にあるときの感覚(物質的考え)をそのまま持って

霊界に入る。

 死んで現界から精霊界に移る時、肉体を除いて身魂に属する全ての物を霊界に持って行く《それは想念や記

憶上にある全ての物》。死後の生涯に入った時、現界にあったときと同じ形の身体を保ち外見上は現界での姿

と全く同じである。そして霊界で見る状態は現界のそれと同じであるが、その実体は霊的身体は既に霊的活動

に入っており物質的な事物より分離し、純化し清らかになっている。精霊界に入った後も凡ての精霊は現界に

いた時の肉体と同じだと思い、じぶんが死んだ事を忘れている。

 精霊界に入った後も人は依然として現界において感受した肉体的感覚を保有しているので、見る、聞く、言

ふ、嗅ぐ、味わう、触るなど全て現世と同じである。また名位寿富の願いもあり、思考し省み感動し愛し意識

し、学術をこのむ者は読書や著述に励む。言い換えれば、ここ(現世)からあの世に移っただけで、身に持つ

一切の事物を霊界に持って行くのである。従って死ぬと言うことは物質的形体《肉体》の死滅に過ぎず自己本

来の生命を決して失うものでない。

 再び神の意志により現世に生れて来る時は以前の記憶を一切忘却するが、こは刑罰の一種で如何ともする術

もない。一度霊界へ復活し、また娑婆に生れくるのは神霊界より見れば、すべて不幸の身魂である。人は現世

に在る間に五倫五常の道を踏み、神を敬い世を救い神の御子たる天職を全うしておかなければ、死んで後中有

界に迷い或は地獄で種々の苦しみを受けるものと覚悟しなければならない。従って、真の神を信仰して善を行

い美を尽し、人の人たる本分を力限り努めつつ永遠無窮の天国へ楽しく上り行く用意を怠ってはならない。

 顕幽一致生死不二であるから、生を軽んじ死を重視するのは道に外れ、また生のみを重んじ死を軽く見るの

もまた良くない。人は刹那々々に身魂を研き清めて神界と現実界のすべての大経綸の神業に一生懸命尽しなさ

い。惟神神のまにまに述べておきます。

以上のお歌から判ることは魂にとっては死という感覚がないのです。従って、生前における思いや行いが如

何に大切かが判ります。ここで面白いのは五感を持ち向上心があり、趣味も考え方も全て生前と同じであると

言うことです。そして霊界は生前、日頃思っていた思いのまま霊界に入るので常に神と結ばれ、天国と同じ気

持ちでなければ死後天国には行けないのです。(日頃地獄的思いであれば地獄に行くしかないと言うこと)

                                  

                                          
以上阿良田記

次回 2月18日(月) 金沢教室 午後1時30分より

   2月21日(木) 富山教室 午後7時より


金沢教室 1月21日(月)  

霊界物語第14巻第5章「風馬牛」。第2篇幽山霊水、第6章「楽隠居」を拝読。

 第5章では、弥次彦は三五教信者であるが無類の与太助である。六公は弥次彦を評して『まるで弥次サンは

六道の辻に亡者が迷ふた様な人ですな』といっている。13巻に続いてここでも木花姫命が馬や牛になって、

3人を改心させようと夢の中に出てこられる。

 馬に乗るには鞍や鞭は欠かせない物ですが、弥次彦はその肝心の物を捨ててしまっている。馬(木花姫命の

分霊)は「無智な奴の、人三化七に鞭の必要があるものかい」と戒めています。また、馬『ヒンヒンヒン、貧

相な奴だな、品格の悪い』ともいい、ついには

馬『輪廻に迷ふ浅間しさ、回天動地の神業に参加すると貴様は毎時も吐(ほざ)いてゐるが如何だい、回天動

の大事業は馬サンの活動に勝るものはあるまい、・・・・《迷いの世界を生きかわり死にかわりする浅ましい

存在でありながら、世の中を一変させるような神業に参加すると何時もいっているがそんな大それた事が出来

るわけがない》』と振り回され、ついに
弥『これはこれは、失礼いたしました、何卒許して下さいませ』と降

参する。

 第6章では、勝公に対して与太彦が『ハー矢つ張り此奴は三五教らしいぞ。中々語気が確かりしてゐる哩』

といっている。正しい信仰をしていれば臍下丹田に気が座り、力のある声がでるのです。

 弥、与『有るとも有るとも、彼の出刃の災難に遭はうとした時、目で知らして呉れたのはお前だつたよ。敵

の中にも味方があると云つて非常に感謝して居つたのだ。その時の恩人はお前だつたか、妙なものだな。お前

に助けられて又此処で助けられた俺達が、お前を助けるとは不思議なことだ。これだから人間は善いことをし

て人を助けねばならない。神様の実地教育を受けたのだ。あゝ有難い有難い、四人一同揃つて神言を奏上しま

せうか』
適だと思っていたら見方だったり、見方だと思っていたら適であったり、世の中は予測が付かないも

のです。そして、良い事をすればこの場面のようにお互いが助け合う場合もあり、また巡り巡って自分に返っ

てくることもあるのでしょう。

                                          
以上阿良田記

次回 2月18日(月) 金沢教室 午後1時30分より

   2月21日(木) 富山教室 午後7時より


八重洲教室 1月26日(土)  


 冒頭で、去る1月19日は出口王仁三郎聖師の65年目の命日であったことや、1月6日のEテレの番組に

ついての話が有った。また今年の新年の綾部は天気が良く、新年祭は本宮山の麓の屋外で行われたが、非常に

寒かったとのことだった。


第26巻  第一三章 三つ巴  第一四章 大変歌  第一五章 諭詩の歌  第一六章 三五玉

      第一七章 帰り路  跋

 高姫、黒姫、高山彦はそれぞれ別々に琵琶湖の竹生島の社殿の床下を有りもしない玉探しを行う。

この時社殿には英子姫と亀彦がいたが、亀彦は社殿の中に入って様子を窺う。亀彦は木花姫神に扮して、ここ

には玉が無いことを宣示する。高姫等は国依別に騙されたことを悟り、聖地に戻るのであった。湖面に水茎文

字現れ、大竜も現れて、真の木花姫の宣旨を聞くが、高姫等の執着心は晴れなかった。

 第一六章には三つ玉と五つの玉のそれぞれの説明が載っているが、それぞれの玉がどういう意味があるのか

今後の宿題とした。

 高姫等は亀山の梅照彦の館へ立ち寄るが、梅照彦夫婦が五つの玉が納まる綾部へ行ったことを知り、綾部へ

向って行くのであった。
                
                                           桜井道彦記


青梅教室 1月28日(月)  


                                         於、青梅市民会館

物語17巻、第15章敵味方、第16章城攻、17章有終の美、霊の礎。

15章の書き出しは「2月15日の月光を浴びて」にて始められるが、高熊山修行第1回目の最終日に当たる。馬公、

鹿公が御嶽山の頂上で一夜を明かす折、悪夢を見せられて眠れず山中
を逍遥しつつ、鬼鷹、荒鷹等邪神連と出会

い、加米彦、音彦、悦子姫達と共に邪神らを改心させる。
その彼らが改心してゆく姿を描写して人としてのあり

方、神の慈悲の心を教示する。・・如何に悪人
と言っても、元はみな神様の結構な霊が血管の中を流れているの

だから、悪になるのは皆誤解からだ・・絶
対の悪人は無い・謙遜り省みつつ惟神に任す・・元は天帝の分霊・・

人は神の子神の宮・・とかの言魂
の発言は読む者の心を和ませてくれる。しかし鬼熊別を信じる子分は三五教が

悪と思って働くので有
り、丁度大本立教時に聖師を悪と思い、力限り排撃した者たちの思いも有り有りと描き出

される。現在の
吾々にも当てはまる事態でもある。この鬼ヶ城では丹州と言う人物が悪党連の改心の為に潜り込

みが、木の
花姫の化身で有った。神の経綸は用意周到であると伺わせる記述でもある。この丹州を含めて改心し

連中と三五教の者との歌合戦は八百長でもあるが、鬼熊別、蜈蚣姫夫婦の改心を促す為の真心の長歌が繰り出

される。

ここには大本の真髄が吐露されている。「天の八重雲掻き別けて・天降りましたる皇神の・珍の御子と現れし・

神素戔嗚の瑞霊・木花姫の生御霊・日の出の神の厳霊・三五の月の御教えを・
四方の国々隈もなく月照彦の大神

や・金勝要の大御神・従ひ給ふ八百万・神の使いの宣伝使・・・と吾々
の使命が述べてある。

巻末の霊の礎は本質的な教えが示される。瑞霊の手を通し、口を通した霊界物語が救世の書と示される。

                                             三輪光佳

次回2月25日、於青梅市民会館夜7時~

物語18巻