霊界物語臨地研修会
   
        山鹿、高千穂の旅  報告   
2008.6.28〜29

       

 梅雨も明けぬ九州地方は各地で大雨による被害がニュースで報じられていた。恒例となった

熊本山鹿のみろく観音さま祭典も九州在住の有志の方々の呼びかけで、今年は六月二十八日、

二十九日の両日にわたって祭典と研修会が行われた。

 二十八日午後一時山鹿市郊外の三玉村に鎮座されているみろく観音さまの前に集合。全国各

地より八十四名が参加した。九州各地からはもとより、関東、中部、北陸、山口、島根からと

広域からの参拝である。当日午前中は雨でであったが、さすがに午後祭典が始まると心配され

ていた雨もあがり瑞霊のご守護を改めて感じた。

 山鹿のみろく岩(地元では不動岩)は約六億年前に隆起した奇岩である。太古より信仰の対

象となっていたようで麓から経筒(中に弥勒下生経が入れられていた)が発掘されている。み

ろく岩は霊界物語第二巻の口絵の写真に掲載されているが、聖師自らの指示であった。大正十

一年に発刊された霊界物語第二巻にすでに掲載されている。聖師はまだ訪問されておらず地元

の町長より贈られた写真をみて指示されたという。

 さて大正十二年八月聖師は随行者をともなって阿蘇の杖立温泉に逗留されている。この間約

二十日。旧暦の七月十二日に当る八月二十三日、杖立温泉組合から贈られた竹の杓子百六十本

に「此の杓子わが生まれたる十二夜の月の姿によくも似しかな」「万有の身魂を救うこの釈子

こころのままに世人救えよ」と二首の歌を詠みスの拇印を捺して宣伝使に送られた。御手代の

はじまりである。後にこの御手代が聖師自らの危難を救うのであるが・・・。

 阿蘇から熊本を経て同年九月一日に初めて山鹿に入られた。九州各地より聖師の来訪をきき

つけて滞在先の松風閣に信徒が集まり、聖師との面会に期待に胸をふくらませたが、結局皆に

会うことなく部屋からは出なかった。代りに随行者の一人であった出口宇智麿さんが霊界物語

第三十一巻の第二章大地震、第三章救世神の二章を拝読して解散となった。集まった信徒は聖

師に面会出来ずやや不満であったが、翌日驚くべき報道に接したのである。当時の速報は号外

が最も広範囲に情報を伝達する手段であった。号外は東京を中心として起った関東大地震の報

であった。しかも九月一日の昼に勃発した。昨夜拝読した箇所は“ヒルの国の大地震”である

。昼とヒル。このヒルとは南米のペルーのことではあるが。聖師は「この地震はすでに予言し

てある。エトナの噴火のことだ。」と。エトは江戸を指し、ナとは土地のことを意味する。エ

トナは即ち江戸の地となる。

 九月二日三玉村を訪問された聖師は地元の凡導寺に安置されていた石づくりの観音像と対面

された。高さは五尺三寸で聖師の身長と同じであった。聖師が鎮魂をされるとその石像が動い

たのであった。さっそくこの観音に「弥勒最勝妙如来」と名付けられ、「大正十三年三月三日

にこの観音を外に出して鎮祭するように」、更に「顔をみろく岩に向けて安置せよ」と指示を

された。

               

 後日談があり、三玉村の人たちと、地元の大本信徒が聖師の指示に従うべく観音像の遷座を

協議したのが翌大正十三年の二月十三日であった。奇しくも同日聖師は第一次大本事件により

責付出獄中の身でありながら秘かに綾部より抜け出して満州、蒙古へと旅立たれたその日であ

った。身はその夕刻に満州奉天に到着されたのである(現在の瀋陽)。日本の国土を離れて勇

躍されるのだが、霊界物語第二巻第一篇第三章に「美山彦の出現」について記されていて、聖

師のご神格に触れてある。後に言霊別と名をかえるのだが、聖師そのもののお働きが述べられ

ている。二巻一篇三章という数も二、一、三となり聖師の入蒙は杖立、山鹿にてのご神業が布

石となっていることが伺える。入蒙の意義は稿を改めることにするが、聖師は大正十四年この

観音像の安置された地を“瑞霊苑”と命名された。

 さて話を戻そう。今回参加した一同はそれぞれの自動車に便乗し、一路高千穂へとむかった

。高千穂神社の夜神楽見学も今度の研修の一つである。山鹿から二時間半、阿蘇の山麓を経て

高千穂の街に入る。ホテル神州に到着し、さっそく夕食会となった。筑波大学准教授の一二三

朋子さんの挨拶、大友映男さんの乾杯、また熊本の医師三角泰璽さん、元船井行雄さんの秘書

であった粕井滋さんのスピーチなどもあり、にぎやかな夕食会となった。急ぎ夕食を済ませて

高千穂神社へと向かう。夜のとばりもおりて神さびた境内は神霊の氣を感じさせる。午後八時

より神楽殿にて高千穂神楽が演じられた。

 翌朝は午前八時より研修会、第一講は幣立宮に隣接する世界平和道場を主宰されている佐藤

昭二さんを講師に招きお話を伺った。佐藤さんは廃校跡を再利用しながら訪問者に平和な世界

づくりの道を説かれている。奈良の天川神社再興にも貢献され、講演の内容も阿蘇と天川の因

縁に触れられ一同興味深々拝聴した。第二講は出口信一先生による霊界物語第七巻の勉強会。

第七巻は九州の守護職が日の出の神により任じられてゆくところで、今回九州にての研修会に

ふさわしい巻となった。アフリカの胞衣であり、金勝要神の四魂の一柱である純世姫の守護に

関して詳述されている巻でもある。約一時間の勉強会が終了し、地元高千穂の栗原さんのご案

内で岩戸神社に参拝して現地での解散となった。

 行程中何一つ障りなく終了できたことを神恩に感謝するものである。

                                     九州男記

           







  
山鹿みろく観音祭典祝詞            平成二十年六月二十八日

 (はるか)かに大阿蘇の峰を望み菊池の清き流れの豊かにして出湯(いでゆ)の香りもゆかしき山鹿の郷の三玉

村に鎮まり()す弥勒最勝妙如来の(うづ)の大前に忌廻(ゆまは)りて白さく()にし大正十二年九月一日阿蘇杖

立の帰途山鹿の(さと)に在りて霊界物語第三十一巻大地震の(ところ)を供の者に読ませ給へば其の日の昼

関東大震災起りぬ 翌二月 聖師の岐美 此の三玉村を(おとづ)御前(みまえ)の薬師観音像と(まみ)え給ひければ

待ちたる如く五尺三寸の観音像は自ら動き始めければ聖師の岐美は右手(めて)にて(とど)め今になお其が

手の(みあと)胸に残りてあり 其が折に翌大正十三年三月三日に此の清処(すがど)に観音像をみろく岩に向か

ひて永遠(とことは)に移し置きて鎮め(まつる)るべく()り給ひて大正十三年二月十三日大経綸(おほみしぐみ)(まにま)に蒙古に向

けて()ち給ひぬ 阿蘇杖立にありては()の年の旧七月十二日「萬有(ばんゆう)の身魂を救ふ()の杓子心の

まゝに世人救へよ」「此の杓子吾が生まれたる十二夜の月の姿にようも似しかな」と詠ませ給

ひて御手代(みてしろ)として授け宣伝使を()け給ひて救ひの大神業(おほみわざ)を始め給ひぬ 蒙古にありては神素盞鳴

大神の(はか)せ給へる十握剣(とつかのつるぎ)の神実なる豊葦原の中津国なる日本(ひのもと)神国(みくに)契約(うけひ)の型として神追(かむやら)ひに

(やら)はれ世界()(あがな)ひの証明(あかし)として後世(のちのよ)に示し給ふ経綸(しぐみ)なし給へば満州事変を(さかい)として戦争(たたかひ)(には)

立ちても追々と退けられ(つひ)に昭和二十年八月広島、長崎に天の鳥船襲ひ来たりて原爆を投下(おと)

ければ数多(あまた)の青人草等は木の葉の如く逃げ惑ひ犠牲(いけにへ)となりて(つひ)に長き戦争(たたかひ)の幕は降ろされぬ()

にも悲しき僻事(ひがごと)なりけれ (しか)はあれども其が戦争(たたかひ)にて犠牲(いけにへ)となりし数多(あまた)生命(いのち)永遠(とこしへ)に神の御許(みもと)

に救はれ天津御国に歓喜(えらぎよろこび)てありぬ その理由(ゆえよし)新生日本(あたらしきひのもと)世界()先駆(さきが)けて戦争を永遠に放棄し

武備(いくさのそなえ)撤廃(とりはらひ)を国の憲法(のり)として宣言(のら)せしこそ皇神の深き尊き大経綸(おほみしぐみ)なりせば今由後(いまゆのち)其が大精神(おほみこころ)

(うづな)ひて地上(ちのうえ)の生きとし生けるものの(ことごと)授けられし生命(いのち)使命(つとめ)(まった)ふして(えら)ぎ栄える御世(みよ)

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て直し給へ 御前(みまえ)に集ふ諸人等が弥益々に皇大神の手足(みつかひ)となりて(いみじ)貢献(いさを)を立てさせ給へと

種々
(くさぐさ)
の多米津物を捧げ奉りて恐み恐みも 称言竟(たたえごとをへ)奉らくと白す
             

                 



                 
                  
正木高志ご夫婦の奉納演奏