出雲”祭儀と神楽”の旅 報告





4月8日 

 今度、祭儀と神楽の旅が企画された背景は昨秋東京三鷹の沙羅舎を会場に祭式のセミナーが三回に

わたって行なわれたが実際の祭典に参加することで、その最終篇とすることになった。

 参加者は各地より約40名が参加。午後2時にJR松江駅に集合。まず大東町の八雲山に参拝する。

八雲山はスサノオの尊が奇稲田姫と共に宮居を建立されたと伝承のある山で、はるかに大山を観るこ

とができ、眼下には弓ヶ浜が広がってくる。

スサノオの尊が八岐大蛇を退治して「わが心清々し」と宣らせ給うたところからスサノオの尊を祀った

神社の名が須賀社となった。

 ”八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を”の神歌は和歌発祥だとされている。スサ

ノオの尊が八雲山にて詠じられたと伝えられている。

 参加者は出口王仁三郎聖師お手植の松をご神木として祝詞を奏上。その後大友映男さんの石笛の奉納、

また海松ふみゑさんのしの笛の奉納がなされ、山頂に澄んだ音色が鳴り響いた。全員で天津祝詞を奏上

した。地元海潮支部のお茶の接待があった。

支部長の細田さんの安来節の美声を披露していただいた。






     八雲山参拝祝詞

 はるかに大山の聖山(みやま)を仰ぎ拝み 眼下(ました)に神代ながらに弓ヶ浜の百(もも)波千(ち)波の打ち寄する状(さま)を打ち眺める此の八雲の霊山(れいざん)に永久に神鎮まり坐す素盞鳴の大神の御前を忌廻りて白さく
 神代の昔 素盞鳴大神には此の地のうえにわだかまりて世界(よ)を乱し破壊(やぶら)むとする八岐大蛇を日野川上にて言向け和しければ 奇稲田姫を妻神と迎え此の甘し処を永久(つい)の棲家(すみか)と須賀の宮居を建設(た)て給ひ妹背の契り弥深く結ばせ給ひ「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」と神歌(みうた)宜らせ給ひて日の本の八島の国の礎をつき固め給ひて後 美しき豊葦原の瑞穂の国と称え奉られし地の上の国々の隅々八十の島々に至るまで御名を変へさせ給ひつゝ顕(あ)れ給ひければ愈々邪神等(まがかみたち)は終(つい)の争ひとばかり猛(いたけ)り狂ひて皇大神に服(まつ)ろはぬ蒼人草等の身魂に棲みて世界(よ)を穢し破らむと醜(しこ)の雄たけび踏みたけびければ素盞鳴大神の澄み切りし慈愛に充(み)てる瑞の言霊の十握の剣もて朝日に露の消ゆる如く邪神を罰(きた)め根の国へ追ひ下し給ひて村雲の八重垣とり除き国々の垣根をも取り除きて醜の戦争(あらそひ)あらしめず大砲(おおづつ)も兵隊(もののふ)も用なき御世になさしめ給ひて地の上の生きとし生ける物ことごと負持てる使命(つとめ)を尽さしめ給ひて歓ぎ睦み合う御世を到来(きた)らしめ給へ 御前に拝む諸人等は各地各地(おちこち)より大神の御徳を慕ひ奉りて参来集ひければ今由後深き神縁(えにし)を結び給ひて世の立て直しの大神業(おおみわざ)に使わしめ給へと 御前に種々の多米津物置き足はして恐み恐みも乞祈み奉らくと白す。








 下山は夫婦岩のある道を選び下山する。その後須賀神社に参拝。

 午後6時より須賀神社境内地の神楽の宿で出雲神楽を観賞する。地元大東神楽の社中により”国譲

りの段”と”八岐大蛇退治の段”の二幕が演じられた。本場での神楽の迫力ある熱演に一同は大感激。

出雲神話がタイムスリップして目の前に顕れているようであった。







 4月9日

 昨日は黄砂現象で、あまり見通しがよくなかったが、本日は晴天に恵まれた。

 9時に大本島根本苑に集合。三代和昭さんの案内で赤山を散策する。昭和10年12月8日、聖師・

二代さまが拘束された時のことなどを説明。

 10時より四月の月次祭が執行される。祭員の動作などに目を注ぐ。献饌が八雲琴の調べに流れるよ

うに進んでゆく。初めての祭典は古式豊かで、多くの人たちの息の合った動作が美しく感動的なものの

ようであった。

 神言を唱える声も清々しく殿内に響いた。

直会のあと、出口信一先生の講座”スサノオ神話”のテーマで約一時間のお話を聞く。

 すべて終了した後、聖師がこよなく愛され、芸術作品が数多く生み出された地恩郷別院に移動。地恩

郷は第二次大本事件でも吾郷氏の私邸であった為、破壊されることなく残された建物で、聖師の香りが

残されている数少ないひとつである。吾郷礼さんにより案内。最後に素尊山(スサノオ降臨の山)を遥

拝する。

 かけ足の2日間であったが、スサノオの尊の足跡を訪れる気持ち豊かな旅であった。